カテゴリー「東日本大震災」の29件の記事

2013年3月11日 (月)

№1901 大震災から2年

 《東日本大震災》が起こってから、この日で丸2年になる。あっという間だったような気もするし、もう2年かという気もする。今日はその感想を書いてみたい。

 とにもかくにも1000年に一度という大地震で、被害は甚大だった。津波、火災、地震、それに輪をかけたのが原発事故の災害だ。亡くなった方及び行方不明者が、今日現在で18,549人に上るという。それぞれの方にそれぞれの生活があったということを思うにつけても、未曾有の大災害だった。

 しかし、自然の災害とはいうものの、恐ろしい。午後2時46分に起こった大地震なだけに、津波被害の映像をリアルにみる事が出来た。映像に写る、次々と波に飲まれていく人の姿に、なんともかともやり切れない思いを抱いたことを鮮明に思い出す。

 車で避難する人のすぐ後ろを津波が襲う姿に、「逃げろ!」と思わずため息をついたのも虚しい。過去の地震の教訓が何度も繰り返されたのにも拘らず、起こってみると、また同じ過ちを繰り返す。海沿いに暮らす人は、大地震が起こった時には、何をさておいても徒歩で高台に避難するのが先決だ。決して、安易に車を使ってはいけない。

 まず第一に、自分の命を自分で守ることだ。財産を失うとか大切なものを守るとかは、自分の命があってからのことではないか。今後とも、これは何度も何度も繰り返さなければならない。

 それにしても、2年たっても復興は遅々として進まないのにいら立ちを覚える。このところテレビ映像で流される被災地の姿は、草ぼうぼうの荒れ野原だけだ。復興方針が未だ決まらない象徴なのだろう。

 そして、何より悲惨なのが福島の原発災害の被災地だ。爆発破壊された福島原発の寒々しい姿をみるにつけても、これから何十年にもわたる後処理のことを思い、人類がまだ確立していない原発の制御が出来ない以上、原発の運転を進めてはならないという思いが強い。これも何度も言われているのだが、原発の発電コストは果たして本当に安価なのか、検証する必要がある。

 今後のことを思うと、津波被害の大きさもさることながら、やはり一番大きいし、影響大なのが原発による被害なのではないか。福島の被災地をみるにつけ、安部首相の原発再稼働の提言が、むなしく思えてならない。

 今後とも語り続けられるであろうが、「3・11の地震発生時に、自分は何をしていたのだろうか」、この日が来るたびに思いだされる。私は、那須の畑で鍬を振るって畑を耕していた。地震発生直後、頭がクラクラして、目まいを起こした。アレ、どこか悪いのかなと思う間もなく、地面が波のようにうねり始めた。畑の周りの高い樹もゆさゆさ揺れ動いている。これは大変な大地震だと気がついた。早速自宅に帰り、テレビで悲惨な津波被害を目の当たりにした。

 この2年間、私は3度にわたり被災地をみて歩いた。そのうち2度は【被災地支援ボランティア】として出かけたのだが、映像で見る被災地と自分の目に焼き付ける姿では、雲泥の差がある。特に、石巻の大川小学校の被災地の姿は強烈な印象として残った。矢張り、出かけてよかったと思う。

 今年もまた、仲間でボランティアに出かけようと話し合っている。自分たちが出かけたからどうなるというものでもないだろうが、矢張りこの眼に1000年に一度の被害を目に焼き付け、被災地への思いをさらに強めるだけでも、意味があることだと思う。自分の記憶を風化させないためにも…。

【3月10日の歩行記録】

537歩、370m、3分、17.6カロリー

(この日は一日強風が吹き荒れ、花粉症のひどい私は、外に出歩く勇気がなかった)

 

 

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2012年9月 6日 (木)

№1,709 南三陸町震災ボランティアの総括

 今年の5月末から6月上旬にかけて、宮城県南三陸町にボランティア活動に行って来たことは、このブログでも紹介した。その活動を、11月に行われる校友会の会議で報告することになった。報告者は私ではなく、一緒に行ったShinakoさんだ。

 写真をたくさん撮ってきているので、それを活用しながらパワーポイントの画像を作るつもりだ。こういう時には、なんといっても大事なのが編集力だ。一体、どういう画像を何枚作るのか。

 一緒にボランティアに行った4人が集まって協議をした。まずはどういう写真があるのか、写真を撮ってきた仲間のものをUSBに保存して、一枚一枚確認した。もう3ヶ月も前のことになるので、すっかり忘れている。写真を見ることによって、あのボランティア体験がよみがえった。

 そうだ、ああいうこともこういうこともあったね。そういう意味では、面倒でも写真を撮っておくことは重要だ。幸い、私はブログネタ用にどこにもカメラを持ち歩き、写真を撮り続けている。それまでカメラに一切関心がなかったことを考えると、えらい変わりようである。そして、その記録が大事だと、こういう時にしみじみ感じる。

 15分の報告である。1分一枚の画像を作成するとして、最低15枚のパワーポイント画像が必要だ。それに表紙画像と最終画像を作るとして、16~7枚が必要か。

 まずは、昨年のボランティア活動報告のパワーポイント画像を見てみた。昨年はKimieさんが報告してくれたのだが、11枚の画像しかなかった。「それでも、15分の報告はいっぱいいっぱいだったのよ」と言っていた。今年の16~7枚は多いかもしれない。ただ、削ることはいつでもできる。まあ、目標通りの画像を作成してみよう。

 4人で角を突き合わせて、パソコン画面とにらめっこをした。そうだ、パワーポイントのソフトを起動して、どんどんタイトルページだけでも作ってみよう。写真の埋め込みは、じっくり後からでいいのだ。タイトル画面の16枚はあっという間にできた。

 作成した画像をUSBに取り込み、自宅に持ち帰った。そして、皆で突き合わせて「この写真は良いね」というものを頁に取り込んだ。写真には、一言コメントも入れた。こういう編集作業はものすごく楽しい。一時間も熱中しただろうか、粗作業は完成だ。

 ただ、これだけでいいというわけにはいかない。このことがあったので、7月の末に【ステップアップ パワーポイント2010】という講座を県活で受けている。その教科書を取り出して、復習しながらブラッシュアップをかけたい。その上で、今日集まった仲間に見せてみたい。

 作ったパワーポイント画像は5.5Mbくらいの大きさがあった。これをメールに添付する方法はあったけ?少し考えてみたい。

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2012年7月12日 (木)

№1,653 養殖いかだ用の竹を探しています

 先日、いきがい大学の仲間から「東日本大震災のボランティアについて、三陸の養殖いかだの材料の竹材(長さ9.2m、末口7㎝)が集まらなくて困っているとのことです。いきがい大学の私たちで、協力できないかと考えています。ご承知のように、現在、農家は竹林の手入れが出来なくて困っているようです。しかし、この寸法の竹が生えている竹林は限られています。この寸法の竹が50本以上集められる竹林があればご紹介下さい」というメールが入った。

 竹の提供を呼びかけている団体は、【つるがしま里山サポートクラブ】という団体のようだ。この団体は、周辺の里山だけではなく、東日本大震災の復興事業などにも参画し、NHKの首都圏ニュースなどに紹介されているようだ。

 向かいのOhnoのお父さんは、自宅でふんだんに竹材を使っている。もしや、彼に相談したらどうにかなるかもしれないと思い、この話を持ちかけた。そしたら、「50本以上もの竹を提供する人は知らないな。繭の里の入口に大きな竹林がある。その農家に相談してみたら」ということだ。繭の里の入口にそんな大きな竹林があったことなど、私は知らなかった。あらためて行ってみると、太い竹が手入れのないままに放置されているようだ。優に50本以上はあるように見えた。

 その農家を突然訪ねてみた。最初は不思議な顔をされたが、事情を話して竹の無料提供が出来ないものか、厚かましい相談してみた。「ここですぐには答えられない。いずれ家族とも相談して、メールでご返答いたしましょう」と名刺をいただいてきた。この農家の方は、那須の観光協会の会員でもあった。

 2日後に、この農家の方からメールで返事をいただいた。「家族と相談し、竹の伐採と提供を承諾しました。よろしくお願いいたします。私の竹が役に立てば幸いです。また、一昨年に亡くなった祖母が「タケ」という名前でしたので、何か運命も感じます」という温かい返答だった。

 この回答を、早速、わがいきがい大学の仲間に返信した。ただ、この団体は埼玉県の鶴ヶ島で活動しているようなので、果たしてわざわざ那須にまで伐採に来るのかどうかは分からない。そして、その回答もまだ届いていない。

 しかし、人と人のつながりを感じるアクションであった。

 

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2012年6月 5日 (火)

№1,616 大川小学校の悲劇

 今回の南三陸町ボランティア体験記の最後となる記事を投稿する。

 ボランティア参加者2名が自宅で用事があるとのことで、最終日は早めに宿を出て帰ることにした。ただ、どうしても大川小学校の悲劇の現場を訪ね、礼拝をして帰りたいとの強い希望で、石巻市の大川小学校経由で帰途につくことにした。そして、朝8時に宿を出た。

 目的地は、南三陸町から車で30㎞ほどの所である。途中、昨日のGotoh氏の話もあり、三陸わかめやお土産を買っていくことにした。地元の方が推薦する魚屋さんに立ち寄った。参加者は三陸わかめを買っただけではなく、魚や他の海産物もたくさん買い求めていた。

 三陸海岸の海沿いを快適なドライブで、北上川河口を目指した。途中、津波の被災地を横目に眺めたが、立ち寄らなかった。そして、50分ほどで北上川の河口に着いた。私は初めて訪れたのだが、北上川の河口は幅200mもある大河であった。

 大河を遡ること10分程、新北上川大橋を渡ったところの川の畔に、目指す大川小学校はあった。この小学校の悲劇は多く語り伝えられていて、知っている方も多いと思うが、あらためて思い出してみよう。

 3月11日、大地震で学童と教職員は校庭に集まった。そして、父兄の出迎えを待っている間に巨大津波に襲われた事件だ。全校児童108名のうち、児童74名と教職員10名の尊い命が失われた。学校の裏には、すぐ近くに傾斜の緩い裏山があったのにもかかわらず、なぜそこに逃げないで、津波に飲まれるままになったのかという批判が高まり、父兄から裁判まで起こされているようだ。

Img_7996  その被災した小学校前には、祭壇が設けられていた。参加者全員で、その祭壇の前で頭を深く垂れ、亡き犠牲者たちのご冥福をお祈りした。

Img_7998  毎日のように、この祭壇をお参りしている住人がいたのでお話を伺った。今は仮設住宅に住んでいるという。なぜ逃げなかったのかとの問いに、「そもそも、河口から5㎞も離れているこの小学校が津波に襲われるなど想定もしていなかったし、津波訓練など考えもしなかった」ようだ。ましてや、この小学校は、地震や津波の避難場所に指定されるほど安全とされていた。

 地震が起きた2時46分から50分もたった3時37分に、その津波が襲った。北上川下流から襲った津波と上流の堤防が決壊した津波に、2方向から襲われ、逃げようがなかったという。そもそも、裏山に逃げるなど想定外だったらしい。

 眼の前には北上川の高い堤防がそびえ立ち、津波が北上川をさかのぼっている様子など、校庭にいた教職員には想像もできなかったようだ。そして、10mを超える高い津波が眼前に迫った時には、なすすべもなかったようだ。

Img_8004  現場を見ると、裏山に小道があり、100名ほどの児童が登って避難するのは、そんなに難しくはなかったように思う。今から思うとものすごく残念な気もするが、その時の判断ではどうしようもなかったのだろうか。なんともやりきれない思いがする。

 子どもを亡くしたご夫婦だろうか、暗い沈んだ様子で祭壇の隣の植え木に水をやっていた。その若いご夫婦のあまりにも落胆して肩を落としている姿が、われわれの胸を打った。ましてや、そのご夫婦に声をかけるのも憚られた。それでもお子様を亡くされたのですかと聞いたら、黙って肯くだけだった。なんともやりきれない気になった。

Img_8000Img_8003  平屋建ての学校はほぼ全壊し、プールも土砂に埋もれていた。ただ、むなしくクラスを表示する3年一組の看板だけが窓越しに見えた。

 この悲惨な出来事は長く語り伝えてゆかなければならない、と強く思った。

 そして、東北自動車道を久喜駅に帰って来たのが午後3時前だった。何の事故や傷害もなく、主催者としてはヤレヤレホッとしている。次があるのかどうかは知らないが、昨年といい今年といい、自分にとっては貴重な体験をした。今回の全走行距離は910kmであった。

 なお、多くの写真を見たいという希望もあったので、記事で紹介できなかった写真を【南三陸の被災現場】として、右サイドバートップに付け加えた。興味のある方はご覧ください。

 今回のボランティアに協力してくれた皆さん、本当にありがとう!!!

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2012年6月 4日 (月)

№1,615 南三陸ボランティア二日目

 南三陸ボランティアセンターには、実に様々な人がやってきている。何より驚いたのは、大分県から60時間かけて軽自動車に乗ってやってきたおじさんだ。もう72歳になるというが、昨年も3月末から12月末まで、ここでボランティアをやっていたようだ。そして、今回も7月末までの2カ月間滞在するというのだ。

P6010002  われわれのように、ぬくぬくと民宿に泊まるわけでもなく、乗ってきた軽自動車に泊まり、三食とも自炊するのだそうだ。「風呂はどうするの」と聞いたら、「風呂に入らなくても、人間死にやしないよ」と、豪快に笑っていた。

 地元大分でも、湯布院岳の登山道整備等のボランティア活動をやっているのだそうだ。その若さは、まるで50歳代前半にも思えた。

 大阪からやって来たという若い女性もいた。この日で5日目になるという。2日目は一緒の作業現場だったが、率先して取り組む姿は素晴らしかった。さらにわれわれが唸ったのは、持ち金をはたいてボランティアセンターにスコップやバケツを買って、寄贈していたことだ。

 そういえば、昨日も同じ現場で働いていた浦和から来たという若い男性二人組は、会社を休んできているのだと言っていた。南三陸で二日のボランティア活動のあとは、福島県の相馬に行って、犬猫への餌やりボランティアを三日ほどやって帰るのだそうだ。

 こうやってボランティアで来ている人の顔は輝きを放っていたし、溌剌としていると感じたのは私だけではなかった。しかも、圧倒的に若い人が多かった。こういう人たちに元気をもらっただけでも、ここに来てよかった、としみじみ語っていたのが、昨年も参加したKimieさんだ。

 さて、今日の作業は瓦礫の片付けだという。スタート前に、「このビブスを着て以降は、写真の撮影は一切厳禁」と注意された。しかも、この日は日蔭もないし、トイレもない現場だという。女性陣にとっては過酷だ。お互い、あまり水分は取らないようにしよう。とはいってもカンカン照りだ、トイレに行きたい時は車でお送りするからといっておいた。

 この日の現場へ行ったのは、われわれを含めて20人。その中で、車のない人は一人だけだった。やはり、皆さん車で駆けつけていたのだ。

 今日の現場責任者Gotohさんは、てきぱきとしていた。一体幾つぐらいだろうか聞いてみたら、「私は若くないですよ。もう52歳になりました」ですって。まだ、30代かと思った。彼も週4日、ボランティアでこの南三陸町に来ているのだという。一体どうやって飯を食っているのか聞いてみたら、「若干資産がありますから」といっていた。

 この作業中に分かったのだが、われわれの仲間Shikoちゃんの高校時代の同級生も同じ現場にいたのだ。高校を卒業して50年にもなるのに、本当に奇遇だった。高校時代、Shikoちゃんは柔道部の猛者だったらしい。イヤ~~、こういう事ってあるもんだね。この方は一関に住んでいて、南三陸町には毎朝1時間かけて、弁当持参で通ってきているのだそうだ。

 彼はこの被害を見たら、自分もじっとしていられなくって、出来るだけ足を運ぶようにしているのだそうだ。そして時々は、若いボランティアを見ると自宅に招待し、風呂と食事を供すると言っていた。「皆、テント生活で疲れているようだ。この若者たちを見ると、日本もまだまだ捨てたもんじゃないね」としみじみ言っていた。

 この日の現場は、JR気仙沼線の志津川駅の真ん前の住宅地だった。住宅地は津波の被害にあい、鉄道線路も津波に流された。たまたま通ったおばあさんに話を聞いた。「3月11日は芸能祭があり、老人はみな結婚式場の会場にいた。そのお祭りが終わった時に津波が来、屋上に逃れてやっと助かったのだ」と話していた。ただ、近所の方で何人も亡くなった方がいたという。「生きると死ぬは紙一重の差ですね」といっていた。

 ちなみに南三陸町の被害は、4月3日現在、死者396名、行方不明者612名という。また被害にあった家屋は、3,330戸だそうだ。本当に甚大な被害だったのだ。

029  そういえば、宿の若女将もこういっていた。「自分には3人の子どもがいる。地震があったので、子供を学校に迎えに行ったら、大津波にあった。津波で自宅に帰れなくなり、そのまま学校に一泊した。新聞紙一枚敷いて子供3人と寝たのだが、あの寒さは今でも忘れられない」そうだ。

 ただ、地震発生の時間が若干ずれていたら、自分も子供もどうなったのかわからない、と溜息をついていた。

P6010003  そうだ、この日の作業中に空を見たら、虹ではないが七色に光っていた。おやこの減少は何だろうと問いかけたら、【彩雲】だという。まるで山に登った時のブロッケン現象のようなものだった。

 それにしても、わずか二日間の労働だったのだが、わが老体には堪えた。ボランティア活動は自分の体力に合わせてというので、今回はこの2日間だけにしよう。それにしても、チーム責任者は、われわれの作業をハラハラしながら見守っているのが手に取るようにわかった。

 最後に、この日の現場責任者のGotohさんが言ったことは記憶に残った。「皆さんの労働は貴重なものだったが、最後に3つの事を言いたい。一つは、この貴重なボランティア体験に懲りることなく、いつでもいいからまた来ていただきたい。二つ目は、地域振興という観点から、ぜひこの地で買物をしていっていただきたい。特に三陸わかめはこの地の名産品だ。三つ目は、この体験をなるべく多くの人に伝えてもらいたい。少なくとも、一人が20人にこの体験を伝えることが大きな波になる」。

 感激屋のShinakoさんは、この話を聞いてまた感激していた。ボランティアとして働かなくてもいい、この地に立って自分の眼で見、自分の耳で体験談を聞くだけでも立派なボランティアだと思う。千年に一度の大災害を、しっかりこの眼で見ることが必要だ、と痛感した。

 地震発生から、間もなく1年3ヶ月になる。まだ復興は何も始まっていないと実感できた。自分で出来る事は何でもいい、少しでも動かなければと痛感した。

 昨年も今年も参加した仲間から、もう疲れたので二度と来ないぞといっている先から、次は福島に行こうね、だって。

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2012年6月 3日 (日)

№1,614 南三陸ボランティア一日目

 さて、皆さん修学旅行気分で、朝5時には目が覚めた。Kozoさんなど、「まるでゴリラのような誰かさんのいびきで、夜も寝られなかったよ」とブツブツ言っていた。狭い部屋に、男6人が押し込められたのだ。

 ボランティアの登録が必要と、朝8時には宿を出た。【南三陸町災害ボランティアセンター】は、宿から車で5分程の所だ。果たしてどんな仕事が待っているのだろうか。登録時には、「われわれはシニアなので、なるべく軽い仕事を…」とお願いしておいた。

 そして与えられた仕事が、ビニールハウスの小石取り除き作業だった。海沿いに立っていたビニールハウスが波で流され、山の奥に再建するのだそうだ。ただ、その地は石ころが多く、耕運機が入らないらしい。そこで小石の取り除き作業が必要という。

P5310008  この日の作業場所は切曽木という地だ。いざ出発に際して、わがグループは記念写真を撮った。その時点では、一行はまだまだ元気だった。この地での作業者は18名という。ほとんどの人が、この南三陸町には車でやってきていた。そうか、やはり公共交通機関は金がかかるし、時間もかかる。車でやって来たのは正解だった。

P5310009  現場に着いて、早速作業に取り掛かった。2人一組で、一人はスコップで土を起こし、もう一人はピッケルで小石を取り除く。

 黙々と作業をする者もいれば、口で作業をする者もいた。特にKozoさんなどはぶつぶつ言っているが、シャベルが動いていない。その上で、やれ腰が痛いとか疲れたとか、うるさい。他のグループは、われわれの陽気さを見て呆れていたのではなかっただろうか。

P5310014  まあ、けどこういう明るさがあるからこそ、作業も捗るというものだ。皆さん、苦笑をこらえて一生懸命土掘りに精を出した。そしたら、「出た~~」と頓狂な声を出すものがあらわれた。大きな石を掘り出したのだ。

P5310015  KonちゃんとAkiraさんの出番だ。鶴嘴を取り出して、大きく振りかぶり石に打ちつけた。徐々に大きな石が顔を出す。まるで宝掘りのように、作業の手を止めて見いる。そして、大きな石が顔を出すと歓声を上げた。

 日がな一日、こういう作業を繰り返した。この土地の持ち主である農家も顔を出した。このビニールハウスは全部で33棟あり、小松菜を植える予定だそうだ。それにしても精巧に出来たビニールハウスだった。空気の取り入れもでき、水も散布できたし、ビニールが2重になっている。一棟が相当高いだろうねと想像できた。

P5310017  私もShinakoさんと組んで、シャベルで小石取り除き作業に精を出した。ところが、私のズボンが悲鳴を上げてきた。お腹が空いたとでもいっているのだろうか、パックリ口をあけた。皆さん、それを見てまた大笑いだ。

 このズボンは、那須での畑作業の時にはいていたもので、相当くたびれていたのだろう。宿に帰ると替えズボンはあるのだが、この日一日はこれで我慢するしかない。

P5310019  お昼ご飯は、近くの小川の畔で摂った。汗を大量に流した分、仕出し弁当は美味しくいただけた。Shinakoさんは、デザートのミカンまで用意してくれていた。

 そのうち、Akiraさんの顔が見えなくなった。しばらくしたら、大量の山菜ミズを採って来た。この付近はミズだらけだったようだ。ところが、山菜のミズを知っている人は少なかった。どうやって食べるのか聞かれたが、秋田ではおひたしにするし、宮城では漬物にするそうだ。

P5310018  お昼ご飯を食べて、さてもう2時間頑張ろうよ。この日の収穫は、このトラタクターに5~6杯もの石を取り除いたことだったろうか。

 午後3時になり、ようやくこの日の作業は終わった。やれ足が痛い、腰が痛いとわがシニアボランティアは大騒ぎだ。挙句の果てに、「明日は別の作業をしようよ」だって。

 ボランティアセンターに行って、漁業支援をやりたいと言ったら、その支援はもう終わってしまったとのことだった。まあ、明日はまたどんな作業が待ち受けているやら…。

 宿に帰って、早速ひと風呂浴びた。さらに、あまりの狭さにもう一部屋をお願いして、二部屋に別れて泊まることにした。

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2012年6月 2日 (土)

№1,613 仲間で南三陸町へ

 3泊4日のボランティア活動を終え、今日無事に帰って来た。残念ながら現地ではインターネット環境がなく、ブログ投稿は出来なかった。後追いになって申し訳ないが、これから3~4回でその様子の報告をしたい。

 われわれいきがい大学の仲間10人は、昨年6月にもボランティア活動で仙台と多賀城に行ってきた。その仲間を中心に、今年も震災支援に出かけようよという声が上がった。あまりにも生々しい記憶で、多分、黙っていられなかったのだと思う。

 私自身、ぜひもう一度行きたいと強く願っていた。昨年行った仲間を中心に声をかけたら、幸い8人が参加するという。その中で、昨年も参加した経験者は5人だった。

 今年は昨年と違う場所を考えてみた。そして思いついたのが、南三陸町か陸前高田市だ。しかし、いずれの場所もほぼ陸の孤島になっていて、交通の便がものすごく悪い。当初は公共交通機関を使って行こうと思ったいたのだが、交通費だけで25,000円ほどかかることが分かった。さらに宿代、その他もろもろを考えてみたら50,000円ほどになる。

 一緒に行く仲間から、もっと安く行く方法を考えてくれ、と悲鳴が上がった。仲間はほとんどが年金生活者なのだ。そうだよね、ボランティアで50,000円の出費はたしかに痛い。たまたま校友会の総会があったので、出席者100名弱にカンパを呼び掛けた。何人かからは、「自分は行けなくて申し訳ないが、せいぜいカンパをさせていただきたい」と声がかかり、本当に嬉しかった。そして集まったカンパが、なんと12万円を超えた。有難いことだった。

 さらに節約を考えたら、公共交通機関ではなく、自家用車で行ったらもっと安く上がるのではないのかと思いついた。幸い、Akiraさんが車の提供を申し出てくれた。私の新車と2台で行くと、8人の参加者は窮屈な思いをしないで行けそうだ。

 さらに調べてみたら、東北地方にボランティアで出かける車には、6月末まで高速道路代が無料という特典があるらしい。Akiraさんの車も私の車もプリウスで、極めて燃費がいい。ガソリンを満タンにすると、往復できそうな距離だった。結果として車で行ったのが大正解で、現地での活動も自由に出来たし、何より被災地を広く見て歩くことが出来た。

 参加者は朝9時に久喜駅に集合し、東北自動車道に乗った。高速道は、久喜からすぐ近くなのだ。天気もいいし、最高のドライブ気分だった。1日目は急ぐ旅ではないし、休み休みゆっくり出かけた。一緒に私の車に乗ったShinakoさんは今年初めての参加で、感激することしきりであった。

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 夕方3時過ぎに南三陸町に着いた。夜の酒のつまみを買って行こうと、立ち寄ったのが【南三陸さんさん商店街】だ。仮設の商店が30店も並んでいただろうか。電気屋さん、衣料品店、魚屋さん、お菓子屋、写真店、整骨院、床屋さん、食堂、花屋さんなど様々だ。中には初めて見るのだが、移動銀行まであった。それぞれの店を見て歩いた。

011  そしたら、近くを歩いていた電気工事屋さんを見つけ、誰かが声をかけた。津波の様子を聞こうと思ったのだ。そのおじさんが、また、丁寧に津波の様子を語ってくれた。自分は、地震が起きたので仕事もないと自宅に帰っていた。高台にあった自宅の庭にも津波が押し寄せたらしい。しかしどうという事もなかった。

012  ただ、母親が老人ホームに入居していたようだ。ここの商店街からも見える12~3mの高台にその老人ホームはあった。そこは、津波の避難地域にも指定されていたという。その老人ホームがまるまる津波に襲われ、母親を含む多くの老人の方が亡くなったらしい。

 電気工事屋のおじさんは、その様子を丁寧に30分も話してくれた。その話を聞いていた一行は声も出なかった。写真屋さんに立ち寄ったら、津波の生々しい写真をたくさん飾っていた。写真屋さんの話も伺いながら、佐藤信一さんの写真集『南三陸から 2011.3.11~2011.9.11』をそれぞれの人が買い求めていた。

014  商店街を出た一行は、高台にある中学校に向かった。この校庭から南三陸町を一望のもとに眺めることが出来る場所だ。家屋がすべて流された中、5階建ての志津川病院の建物だけが残っていた。この病院も4回まで津波が襲い、多くの入院患者、病院関係者が亡くなったとのことだ。中には、屋上に逃げ、危うく難を逃れた看護師の方もいたようだが、生き残ったその方々を非難できるだろうか。

020  志津川病院に近寄ってみると、2階のテラスには、まだ津波で流された船が引っ掛かっていた。どうやらこの病院も解体するとのことで、その工事が始まったようである。

019  防災対策庁舎では、最後まで「津波が来るので避難を」と防災無線で呼び掛けた女性の職員が波に持っていかれた。その鉄骨の建物が、無残にも残っていた。入口には多くのお花や千羽鶴が立向けられていた。一行も、その前で深く額づいた。

024  海岸も、高い堤防が粉々になっていたし、公園だったのだろうか、展示品の機関車が横倒しになっていた。その脇には、高い瓦礫の山である。津波の被害の爪痕がまざまざと思われる光景だった。その高い山を見て、一体何が起きたのか、想像するだに恐ろしいことだった。

 3泊する民宿は、この海岸から車で5分程の所にあった。この民宿【下道荘】も津波に浚われ、ようやくこの2月に高台に再建されたという。木の香がプ~~ンとする真新しい建物だった。

028 P5300002  ここに泊まって、明日からボランティア活動だ。ボランティアで宿泊する、というので宿代を安くしてもらった。それが申し訳ないように、連日連夜、豪華な食事だった。

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2012年5月31日 (木)

№1,612 宿から見た荒島

宿から見た荒島
 朝投稿の記事に添付写真を貼ることができなかったが、やり方を思い出した。追加記事として、投稿したい。(この記事は、帰ってきてから削除しようと思っていた。しかし、わが友みっちぃのコメントがついているので、このままにしておきたい)。

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№1,611 南三陸町でボランティア

 宮城県の南三陸町でボランティアしようと、いきがい大学卒業の仲間八人で、三泊四日の予定でやって来ている。もちろん現地から情報発信しようと、パソコンを持参した。そしてわかったことだが、泊まった宿のせいかそもそもこの町に電波がきていないせいかはわからないが、wifiの電波が拾えない。

 この日は久し振りにモブログ投稿をする。ただ、今後は自宅に帰って、まとめてボランティア活動のことを書きたいと思っているので、次の日曜日まで休みになるかもしれない。ご了解願います。

029  添付した写真は、宿からみた南三陸の海である。大震災の時には、海に浮かぶ荒島まで水が引き、その後に大津波がやって来てきたとのことだ。津波の被害は、それぞれ事情が違っている。

 ボランティアをしながらも、現地のできるだけ多くの人からお話を伺い、ここで報告したいと思っている。

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2012年5月17日 (木)

№1,597 今年も震災支援ボランティアに行くぞ

 昨年の6月に、【東日本大震災支援ボランティア】で仙台・多賀城に行ったことは、このブログにも書いた。昨年行った仲間を中心に、「今年も行こうよ」という声が持ち上がった。皆さんが行きたいというなら、ということで組織をすることにした。

 校友会の組織、HP等を通して呼びかけたら、昨年参加した5人を含め8人の方が参加してくれることになった。ただ、残念なのは、「今年も行こうよ」と大声で言った当の本人が参加しないという。彼が行こうと言わなかったら組織をすることもなかったのに、と内心ブツブツだ。

 今年は、3泊4日で南三陸町に行くことにしよう。いろいろと調べてみたら、エラク不便な場所だ。仙台まで新幹線で行き、仙台駅前からバスに乗って2時間くらいかかるらしい。交通費だけでも往復25,000円位はする。宿には3泊するとして、参加費を最低に見積もっても50,000円弱かかりそうだ。参加する仲間は、みな年金生活者だ。参加するという人から、「もっと安くならないのか研究してみろ」と声がかかった。

 そうだ、電車ではなく車で行ったらどうだろうか。幸い8人の参加者なので、車2台で足りそうだ。その提案をしたら、Akiraさんが「運転を代わってくれるなら、車を出してもいいよ」と快諾してくれた。私の車とで、2台を確保できた。さらに調べてみると、災害ボランティアに行く車は、高速道路代が無料だということが分かった。早速、2台分の申請をし、無事市役所で証明書を取得できた。

 すると、交通費はガソリン代だけだ。幸い、行く車は2台ともトヨタのプリウスで、燃費が良い。4人で新幹線なら10万円かかるのを、交通費は1万円くらいで済みそうだ。さらに、車で行ったら、被災地をいろいろ見学できるというメリットもある。車のナビで現地までの距離を調べてみたら、410kmとあった。まあ、5時間あったらゆっくり行けそうだ。

 宿は、南三陸町の民宿に電話をしてみた。普通一泊6,800円だが、ボランティアの方は6,300円でいいという。有り難い話だ。宿の周りは何もないので、食料や飲料等持ち込んでも構わないといっていた。

 さらにありがたい話があった。先日の校友会総会で、ボランティア参加の呼びかけをした。参加できない方はカンパを、と呼び掛けた。当日の参加者は100名弱いたが、新たな参加者は出なかった。その代わりにと、カンパが総額12万円以上も集まった。

 ボランティへの参加者が集まって、このカンパをどう使うか相談した。せっかくいただいたのだから有効に使おうと、一つは車代、もう一つは宿泊代の補助にしようということになった。さらに、経費として若干残るので、参加者の個人負担は当初考えていた額よりも大幅に軽減されることになった。

 現地ボランティア活動も、様々ありそうだ。なかでも、皆さんが興味を持ったのが漁業支援のようだ。ワカメの植え付けや漁網の修理等の作業だ。今までそういう作業をやったことがないだけに、ぜひやってみたいという。現地のボランティアセンターに相談してみたい。

 出発は5月の下旬だ。ただ、参加者の多くはもう若くはない。あまり無理のないボランティア活動をやってきたいと思う。

 

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