カテゴリー「ふるさと秋田」の33件の記事

2013年8月14日 (水)

№2057 お盆の墓参り

 兄の新盆での帰郷であったが、田舎はちょうど旧盆の季節でもある。お盆のお墓参りをして帰ることにした。亡き兄の家族一行も集まってきた。

 それにしても、秋田は涼しい。ニュースで四万十市が41度の日本記録を更新したとのことだが、実家は30度にもなっていなかった。庭から吹き付ける風も爽やかである。「まるで秋の風のようだね」と女房は言っていた。

 この日のために、前日、10kgもある大きな西瓜を購入した。冷蔵庫で冷やしているのも引き出し、ご馳走に饗した。半分に切った時に少し食べてみたのだが、西瓜は冷やしたほうが断然美味しい。12人ほどで食べたあれほど大きかった西瓜をあっという間に平らげてしまった。

P8130001  さて、お墓参りに行こう。お墓は歩いて3分ほどのところにある。ちょうど甥の一家も来ていた。「昨日、お墓をきれいに磨いておきましたよ」とは嫁のHisakoさん。本当にご苦労様でした。持っていったお花を飾り、墓の周りは華やかになった。皆でお参りし、お寺さんの本堂にも参拝した。寺には周忌表が張っていた。親族関係はないか読んでみたら、亡き父は27回忌とのことだ。もう、そんなになってしまうのか。去る者は日に持って疎し、だね。

 仏壇は実家にはなく、裏の甥の家に安置されている。仏壇にもお参りしてきた。

 お盆に帰ってくることはめったにない。可愛がっていただいたおじさん、おばさんの仏壇もお参りしてこよう。車で40分ほどのところだ。曹洞宗のお寺さんでもあるその家はさぞかし忙しいことだろうなと思いながら伺ってみたら、ちょうど一段落していた。在りし日の一族の話などをしながら、一時間ほどのお邪魔だった。

 これで義理は果たせた。明日の朝、那須経由で帰ろう。

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2013年8月13日 (火)

№2056 兄の新盆

 今回帰郷した主な目的は、今年5月に亡くなった兄の新盆のお参りのためである。横浜の姉は、孫のKaichi君が甲子園出場かなわなかったが、急遽、親族の集まりがったらしい。翌朝、飛行機で秋田に帰ってきた。飛行場に迎えに出たのだが、秋田新幹線が雨でストップになり、飛行機がものすごく混んでいたらしい。

 お坊さんが亡き兄の家にお経をあげに来てくれ、新盆供養が滞りなく終了した。兄の家には二人の子どもがおり、その孫たちも来ていたので、大賑わいの新盆供養となった。この日のためにと心尽くしの料理が出されたが、次から次へと出てくる料理に恐縮してしまった。

 さて帰る段になって、兄嫁のMiyokoさんに「シンさん、亡き夫の着ていたものを貰ってくれないか」との申し出があった。形見分けではないだろうが、背広やブレザーなど誰も着る人がいなくなったのだそうだ。息子は体が大きすぎて、兄の着ていたものは入らないらしい。

 私は、今ではほとんど背広を着る機会はない。自宅のタンスに古い背広がたくさん眠っている。もしかしたらブレザーなら着る機会があるかもしれないと袖を通してみたら、若干小さかったが着れないこともない。折角の申し出なので、ブレザー2着をいただくことにした。

 さらに大島紬の着物があるという。自慢じゃないが、自分には一着の着物もない。この際、お正月に着物デビューをしてみようかと、これもいただくことにした。ただ、ブレザーにしても着物にしても、秋田仕様のせいか、生地が厚かったのが心配だ。果たして、関東で着れるものかどうか。ただ、着物は一度しか着ていないとのことで、捨てるにはもったいない。

 実家に帰り、秋田の姉、横浜の姉、女房との豪華な晩餐会になった。ここでも次から次へとテーブルいっぱいの料理だ。秋田の姉にとってみたら、可愛い妹や弟にせい一杯食べてもらいたいという気配りだった。それを感じた皆は、あれよあれよという間に平らげて行った。帰ってから、真剣にダイエットが必要なようだ。

 さて、お風呂に入って寝ようとしたら、秋田の姉から呼び出しがあった。「私は若いころの手紙を取ってあるのよ」という。その手紙が、旅行鞄一杯に収められていた。主には元旦那にあてたラブレターのようだが、その中に、なんと私の手紙も交じっていた。

 読んでみると、小学3年か4年生のころ姉に宛てて書いた手紙のようだ。私はモノ持ちが悪いので、そんな古いものはほとんど捨てている。懐かしい手紙に、往時のことが少しづつ蘇った。少々恥ずかしいが、そのうちの一通を紹介してみたい。

お姉さん、お元気ですか。ぼくもてつおも元気です。

さむくなったので、へやにひばつがはいったそうですね。

お姉さんは家にいつつきますか。まい日手紙かきで、いそがしいですね。

ねいさんこがしをかわないでまんが王をかってください。おかねは送ります。かってきますか。

お姉さんのへやにはたいしたこっけいな人ばかりですね。なんたことをいいますか。

京都に金かくじぎんかくじができたそうですね。きれいなところですか。きょう都はにぎやかな町ですか。さち子さんがよめになるそうですね。

一日はやくこえば十七日だからその日に亀田につくから十六日にはやびきしてこいばよくないでしょうか。

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2013年8月12日 (月)

№2055 秋田に帰る

 那須から秋田に帰ることにした。姉も那須に2泊し、存分にその涼しさを味わったようだ。女房も、夕方那須到着だ。週末はお盆の帰省ラッシュになるので、明日は那須を早く出よう、少なくとも朝7時には出たいと言ったはずなのに、女房も姉も起きだしたのは7時を過ぎていた。

 しようがない、私が朝食の準備をした。それもゆっくり食べていた。「なに、今日中に秋田に着けばいいのであわてる必要はない」と、人の気も知らないでノンビリしたものだ。【あるるのいえ】を出て高速道に乗ったのは9時過ぎだ。

 当初は快調に飛ばしていたのだが、郡山の近くになったら東北道が渋滞していて、案の定、ピッタリ停まってしまった。100メートル進むのに10分もかかる始末だ。だから言わないこっちゃないのにとブツブツいったが、同乗者は居眠りをしている。高速道の表示を見ると、この先50㎞にもわたってノロノロ運転が続くとあった。こりゃいつ着くかわからない、と高速道を諦めて一般道に降りた。

 以前にも同じ経験があった。その時には、仙台で高速道を降りて一般道で帰ったのだが、あんなに混んでいる高速道が信じられないくらい、下の道は何事もなくスイスイ走っていた。混んでいる時には、高速道を諦めるに限る。

 国道4号線を福島に向かった。混んではいたが、高速道のようなことはない。福島から国道13号線で山形に向かった。順調に走り、山形に着いたのはお昼頃だ。「お腹空いたね、お昼美味しいラーメンを食べようよ」という声を無視して、高速山形道を月山に向かった。月山に着いたのが午後2時ころだ。さすがお腹がすいたので、ドライブインでラーメンをすすった。

P8100001_2  酒田経由で秋田県に入った。途中、象潟に道の駅がある。この海岸は岩牡蠣で有名なところだ。一個600円もしたが、まずは試食だ。実がプリプリしていて、たまらなく美味しかった。まあ、それでも一個でいいね。

 この道の駅で夕食の食材を買い求め、実家に到着したのは午後5時をまわっていた。420㎞の道のりだったが、8時間ほどかかって着いた。

 あれが、そのまま高速道にて帰るとしたら、深夜になっていたことだろうね。本当は、旧盆の時期など移動はしたくなかったが、今年はやむをえない。

 ラジオで秋田の大雨が伝えられていたが、私の実家の付近はほとんど降っていなかった。ゲリラ豪雨は、ちょっと場所がそれただけで、こんなにも違うんだ。

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2013年5月19日 (日)

№1970 亡き兄について思いだすことども

 私のブログには、秋田の姉や横浜の姉は何度か登場しているが、兄が登場したことはほとんどない。今日は、亡くなった兄の話をしたい。

 亡くなった兄と私は5歳違いだ。今でも思い出すのは、小学校入学のときに小学6年生の兄に手を引かれ通学したことだ。ただ5歳の違いということもあり、一緒に遊んだとかの共通体験は意外に少ない。もっとも、私が暴れん坊だったのに対し、兄は思慮深い【静】の人だったという性格の違いもあったかもしれない。

 それに対し、7歳違いの横浜の姉とのことはよく覚えている。姉もキカン気だったのだろうか、よく姉と喧嘩をしてはj実家の裏の蔵に閉じ込められていた。私も姉には悪態をついていたことをよく覚えてはいるが、亡くなった兄と喧嘩した覚えはほとんどない。

 兄は、中学校の野球部では豪速球を投げるエースピッチャーだった。コントロールは悪かったが、とにもかくにも早かった。中学時代のそのイメージが、最後まで強烈だった。高校でも野球部に入ったが、理由は分からないがすぐにやめたようだ。ただ、卒業してからも就職した会社の職場ではエースを守っていた。

 今でも残念でならないのは、ある年まで全国的に有名な企業で働いていたが、脱サラで独立したことだ。親や兄弟に勤務を続けるように強く諌められたが、とうとう辞めてある会社を始めた。「あのとき勤め続けていたら、あんなに苦労をしないで済んだのに」というのは、今でも語り草だ。

 脱サラでの起業は、誰にでもそうなのだが、そんな生易しいものではない。行き詰るのにそんな時間はかからなった。その後は苦労の連続だった。奥さんのMiyokoさんに言わせると、「気が優しすぎて、経営者には向かなかったのではなかったのか」と回想していた。

 会社を経営するということは、金繰りの苦労の連続だ。行き詰った時にどうするのか、脇で見ていても、われわれサラリーマンにはどうすることもできなかった。病気になったのは、心労が主原因だったと思う。病気のあらゆる原因はストレスだよね。

 そして、人生の後半は、ほぼ病気との闘いだった。「あのときサラリーマンを辞めていなければ…」と兄弟姉妹で嘆くのも、ムベなるかなである。ただ、眠るように亡くなったのは、救いでもあった。

 私には男4人、女2人の兄弟姉妹がいた。兄の死亡で、男4人のうち3人が亡くなったことになる。「男一人残ったあなたの責任は重大よ」と、私が日々プレッシャーを受けることになった。そういう私も、いつまで生きるのかは分からない。

【5月18日の歩行記録】

6,813歩、4.39㎞、45分、252.8カロリー

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2013年5月18日 (土)

№1969 葬儀のために再度帰郷

 兄の葬儀に出席するために、車を一日飛ばし、秋田に帰ってきた。今月は2度目の帰郷になる。前日、横浜の姉夫婦もわが家に一泊し、一緒に帰ってきた。秋田までは約550㎞、6時間半かかった。

 午後3時に納棺式が行われるとのこと、それに間に合うようにと自宅を早めに出た。とはいっても、午前7時半は回っていた。こういう場合、急いて事故を起こすというニュースがよくある。急いでも、慎重運転を心掛けた。横浜の義兄は今年後期高齢者になったのを機会に、運転免許を返上したらしい。運転は私一人だった。

 それでも、午後2時すぎには秋田市内の葬儀場に到着した。すぐに、変わり果てた兄の姿に対面した。眠るような穏やかな顔で、まずは安心した。

 それにしても、兄は発病以来17年半、車椅子での生活だった。4年ほど前に透析を始めて、ベッドに縛り付けられる生活だった。本人も大変だったが、看病していた奥さんMiyokoさんの苦労は並大抵ではなかった。仕事を持ちながら、何から何までの面倒を見ていた。帰郷するたびに、Miyokoさんには労いの言葉は掛けていたのだが、想像を絶することだったと思う。

 兄が亡くなったことで、看病生活からは解放されることになったが、これはこれでまた大変なことのようだ。夜もまともに眠れず、げっそりやせ細っていた。こういう時に助かるのが、矢張り家族の団結である。娘と息子一人づついるのだが、二人ともものすごい親思いの感心な子どもたちだ。今は遠くに住んでいるのだが、何をさておいて駆けつけてくれた。

 兄は、呼吸が間遠になって、苦しまずに眠るように亡くなったとのことだが、それだけが唯一の救いだったか。

 納棺の儀式というのは、私には初めての経験だった。本木雅弘主演の【おくりびと】という映画で一躍脚光を浴びる職業にはなったのだが、見ていてあまり良い仕事ではないなと思った。死体を清め、喪への服を着せ、髭を剃り、男だから死化粧はなかったが、死体の身支度をきれいにしていた。

 家族一同、その納棺式を見ながら、米と小豆と塩を三途の川までの食料として捧げるという儀式だった。一時間余りの儀式だったが、無事納棺を終了した。

 遠くから親族、友人等も集まって、お通夜・告別式が行われる。それにしても、葬儀というのは、所が変わると全く違うのだ。すべてを葬儀屋さんに任せるしかない。

 わが一行は葬儀場に宿泊し、亡き兄との最後の夜を送った。それにしても、海外旅行の出発前でよかったと胸をなでおろしている。

【5月18日の歩行記録】

3,821歩、2.47㎞、28分、142カロリー

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2013年5月 4日 (土)

№1955 秋田の蔵の街訪問

 秋田滞在中はズ~~ッと天気が悪かった。天気予報を見ると、秋田だけに雨マークがついている。さらにものすごく寒い。これは一体、何なんだ。

 横浜の姉が、同級生との昼食会で出かけるという。女房は、今日中に那須に帰りたいらしい。秋田の姉は、どうしても、一度秋田の蔵の街増田を訪ねたいという。実家は日本海沿いであり、増田町は、秋田の内陸、横手の近くの様だ。すべての要求を満たすために、横浜の姉の昼食会の間、増田町に行ってみよう、帰ってきたら那須に帰ろうということになった。

 実家の隣には、私の同級生Shouちゃんが住んでいるのだが、結局は顔を合わせなかった。

 実家から増田町までは、カーナビ検索をしてみると、片道約100㎞ある。高速道を使って1時間ほどだ。私は初めて訪れる街だ。よく考えてみると、【ふるさと秋田】というわりには行ったことのない街が多いのに驚く。

002 初めて訪ねた増田町は、本当に豊かだった。車から降りたら老人がついと寄ってきて、ガイドをしてくれるという。その案内に従った。なぜ増田町がこんなに栄えたのか聞いてみたら、「岩手県と秋田の交通の要衝の地にあり、交易で栄えた町」らしい。さらには、養蚕や葉タバコ生産が盛んで、町の基礎を作ったという。

007 蔵の街というが、蔵は街全体で50弱あるが、今公開しているのは14か所のようだ。町の公有駐車場に車を停めたが、目の前には3階建ての立派あ建物があった。【旧石田理吉家の旧家】だという。入場料300円だったが、入場してみた。

 

例の老人がガイドの先頭に立ってくれた。もともとは造り酒屋で、三階建ての建物は客の接待用だという。昭和12年の建築らしいが、通し柱が5寸とものすごい太い柱を使っていた。床柱は台湾で採れた泰山木や柿の木など珍しい材質だった。相当栄華を誇った建物のようだ。

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009 さらに、近くの【佐藤養助商店漆蔵資料館】に立ち寄ってみた。ここは無料で蔵を公開していた。ただ、稲庭うどんを食べさせるレストランにもなっているようで、ここで昼食を摂ることにした。昼食が出来るまでの待ち時間、蔵の内部を見学したのだが、漆を塗った蔵の梁が幅約70センチもあり、素晴らしいものだった。

 ここでは、稲庭うどんと天丼を食べてきた。

012 もう一件立ち寄ったのが【佐藤昆布店】だ。普通の商家だった。昆布を売るだけで商売が成り立つとはすごいもの、と店のおかみさんに言ったら、県内に加工昆布を卸しているらしい。いろいろ昆布を買い求めたが、肝心の蔵も無料で見せていただいた。

 ここは内蔵で、居住空間と一体になった蔵のようだ。「蔵の中は物置に使っていて、とても公開できるような代物じゃありません」と言っていた。しかも家の中は隙間だらけで、冬は隙間風に晒されているという。「おかげで、体が丈夫になります」と自嘲していた。

 町の見物中も雨が降っていた。寒さに耐えられず、2時間くらいの滞在で帰ってきた。増田町から帰ってきたら、昼食会を終えた横浜の姉も帰ってきていた。さて、那須に帰ろうという。待ってくれ、疲れたので少し休憩だ。

014 30分ほど休憩して、那須に向かった。夕食を終えて那須に帰ったのが午後9時半ころだった。結局、この日は650㎞も走ったことになる。ア~~、疲れた。

【5月3日の歩行記録】

3,147歩、2.19㎞、25分、103.6カロリー

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2013年5月 3日 (金)

№1954 今年の秋田の豪雪

 あらためて今年の冬を振り返ってみると、本当に寒かったネ。故郷に帰ってみて、この冬は意外と雪が多かったのに驚く。そういえば、八幡平の酸ヶ湯では7~8メートルの雪が降ったとニュースで伝えていた。

 姉が故郷に久し振りに帰った客にと、いろいろ心を砕いてくれた。弘前への桜見物は時期尚早と中止になったが、その代わりに鳥海山の雪の回廊見物に出かけよう、と誘ってくれた。何でも2~3日前に開通して、5~6メートルの雪の回廊を通って鳥海山の中腹に行けるという。

 姉が、わざわざ市の観光課に問い合わせて、その開通を確認してくれた。その熱意に感謝して、雪の回廊見物に出かけてみることにした。象潟から【ブルーライン】を通って、ホテル・フォレスタ鳥海を目指すことになった。そのホテルで昼食を食べようと、自宅を出発した。この日は、生憎の雨だった。それにしても寒い。

 登山口に沿って、車を進めた。さすが象潟は県南で、麓では桜が満開だった。ところが、山道を登りはじめたら、みぞれ混じりの雪が降っていた。道沿いには残雪を目にし、ところどころにミズバショウに群生地を見た。

 そして、登りはじめてしばらく進むと、【通行止め】の標識が道路中央にあるではないか。よく読むと、午後8時から翌日の午前10時までとある。ということは、この時間は開通しているはずだ。さらに車を進めると、道路が完全に通行止めになっていた。姉が前日に観光協会に確認した限りでは、こんなはずはなかった。

 道を下ってガソリンスタンドで確認したら、この日だけは道路閉鎖だという。姉が怒って、「観光課では開通の確認をしたのに、どういうことだ。さらに、ゴールデンウィークの書入れ時に、役人どものサービス精神の欠如はどうしたことだろう。観光秋田が聞いて呆れる」とプンプンだ。

 あたり散らしてもしようがない、別の道を通ってフォレスタ鳥海を目指した。カーナビが示す道を通って行ったのだが、この道も途中で通行止めになっていた。何でも、崖崩れで通れないという。ということは、フォレスタ鳥海に行く道はないのだろうか。出発前に昼食の予約をしようかと話していたのだが、この天気でまさかホテルが満員ということはあるまい、と予約をしないで出かけてきたのが裏目になった。この間、3時間も車を走らせた。

P5020001 しようがない、近くの親戚のうちでお茶を飲んで帰ろうということになった。従妹の家に立寄ったみたら、その家の裏庭はまだ残雪の山だった。「今朝も雪が降っていたのだが、それでもずいぶん消えたのよ」と言っていた。今年は初めてのことだが、裏庭にはカモシカとかリスが顔を見せて、餌をあさっていたらしい。

 この豪雪に、相当頑丈に造った雪囲いも、あちこちで壊れていた。ここの家は物凄く広大な敷地で、何度か人を頼んで除雪をしたらしい。ある日も、トラック2台とブルドーザを頼んで除雪をしたのだが、翌日にまたドカ雪が降り、前日の除雪が台無しになったと嘆いていた。

 本当に、今年の秋田は雪が深かったのだ。里山の桜の蕾は、まだまだ固かった。

【5月2日の歩行記録】

1,022歩、0.71㎞、7分、33.5カロリー

 

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2013年5月 2日 (木)

№1953 春の遅い秋田へ

 そう、昨晩那須にやって来た客は横浜の姉だ。女房と一緒に車でやってきた。兄のお見舞いに、一緒に秋田に帰郷する目的だ。

 朝食を終え、那須インターチェンジで東北自動車道に乗り、東北を目指した。秋田までは約400㎞、約5時間の道のりだ。行き道は順調だった。途中奥羽山脈を越えるのだが、山肌にはかなり雪が残っている。春は、まだ浅い。

 あまりにも早く到着するのもと思い、寄り道をしようと思い立った。さて、どこに寄ろうかな。枝垂れ桜の名所、角館の武家屋敷はどうだろうか。宮城県のサービスエリアで角館の情報を求めたら、「枝垂れ桜は咲き始めたばかりで、これからのようですよ」とのことだ。それでも、帰郷の途中の道だ。立ち寄ってみることにした。

 秋田の姉から電話が入り、在郷中に弘前の桜を見に行きたいという。しかし、弘前の桜はまだまだなのではなかろうか。

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 お昼過ぎに角館に着いた。残念ながら、雨だった。雨を突いて、相変わらず観光客が多かった。皆さん、枝垂れ桜を期待してのことだったろうが、蕾はまだ固かった。その上に、本当に寒かった。町の方に聞いてみたら、満開になるのは連休明けではなかろうか、と話していた。例年は、5月連休だと散り気味だという。

 折角来客が多いゴールデンウィークなのに開花がまだだと聞き、自然が相手だとママにならないものいだと思った。

P5010004 関東では開花が早かったが、東北は今年の冬は寒かったのだ。こういう具合だと、弘前の桜はまだまだではなかろうか。蕾の桜を見ていても、感興は湧かない。心残りだったけれど、早々に角館の街を離れた。

 ここから秋田市の病院までは、一時間の距離だ。入院している兄の嫁さんと待ち合わせたのだが、待ち合わせ時間まで40分ほどあった。突然姉が、「そういえば、30年弱前に、この付近に住んでいたはずだ」というので、旧宅を探してみた。それらしい家はあったが、あまりにも街の様子が変わっていた。

 実家に着いたのは、午後5時を過ぎていた。秋田の姉は一人住まいなので、お土産はほとんど持って行かない。ただ、今回はお土産に唯一、那須の芹を持って帰った。切りたんぽにしようというメニューが、急遽おひたしに変わった。

【5月1日の歩行記録】

2,960歩、2.06㎞、23分、97.5カロリー

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2012年10月10日 (水)

№1,743 秋田から那須へ

 兄の見舞いを終えて、那須に帰ってきた。結局、秋田の実家に滞在したのは二日間だ。帰郷を機会に、今話題になっているシェールの発掘現場を見てみたいと訪ねた。現場は、同じ市内とのことだ。

 石油資源開発公団の現地事務所を訪ねてみた。この事務所では対応できないし、現場も教えることはできない、とすげなく断られた。現地の住人に尋ねたら、「新聞に載った当日は物凄い人だった」らしい。ただ、ここの住人にもどこが現場なのか知らない、と言っていた。

 さて、姉は娘のMaikoのアドヴァイスで新たなパソコンを買っていた。台湾製のパソコンで、ずいぶん安く買ったものらしい。いつも麻雀ソフトを使って遊んでいるという。それならもっと面白い遊び方があると指南した。YAHOOのIDとパスワードを取得すると、無料のゲームが出来るのだ。

 そして、YAHOOのIDとパスワードを取得してやった。早速、囲碁をやっていた。見ていてあまりも下手なので呆れてしまった。それでも、このゲームをやっていると飽きることがない。良いことを覚えたと、姉は喜んでいた。姉は不眠症で、昨晩も明け方4時まで眠れなかったらしい。無理に眠る必要もない、一晩中このゲームで遊んでいたらいいのじゃないか。

 帰る段になったら、姉に「横手の県立近代美術館で【平山郁夫展】をやっているので、見ていかないか」と提案された。帰る途中なので、寄っていくことにした。高速道で1時間弱だ。

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Pa090002 その美術館は、【ふるさと村】の一角あった。その村の大きさにびっくりして、また無駄なものを作ったものだと思った。その【近代美術館】も立派な建物だった。何でも、安藤忠雄設計になるものらしい。

 この村も開村当時は大賑わいのようだったが、この日は平日のせいか、晴天なのにもかかわらず閑散としていた。

 肝心の【平山郁夫展】なのだが、9月25日で終わったとのことだ。自宅を出る直前に、姉は美術館に今日の開館を確かめて出てきたのだ。【平山郁夫展】をやっているかどうかは聞かなかったようだ。本当にそそっかしいんだから。

 その村で稲庭うどんを食べ、駅までお送りして別れた。まだお昼だ。さて、今日はどうやって那須まで帰ろうか。まあ、急ぐ旅でもないしと、福島まで一般道を通ることにした。横手から福島までは4時間半かかった。

 国道13号線の道は、ススキの穂波がきれいだった。福島から東北道に乗り、那須に着いたのが午後6時過ぎだ。横手から約6時間かかったことになる。しかも、ほとんどノーストップでだ。

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2012年10月 9日 (火)

№1,742 一年ぶりの帰郷

 さて、私は野球応援を終え、久し振りに秋田に帰ってきた。ブログ検索をしてみると、昨年の9月下旬に帰っているから、一年ぶりの帰郷である。カーナビで調べると、福島から秋田まで330kmとあった。多分3時間半から4時間だろう。

 4時過ぎに球場を出て、東北自動車道に乗り、ノンストップで秋田の自宅まで運転した。着いてみたら午後7時半だった。相当スピードを出して走ったから3時間半ほどで着いた。あまり早く着いたので、実家の姉は驚いていた。

 実家には、兄嫁のMiyokoさんと息子のYohei君も待っていてくれた。Yohei君は福島市に住んでいるのだが、連休中にお父さんのお見舞いをかねて帰ってきたらしい。

Pa080005 秋田の実家に帰る直前に姉から電話があり、「宮本輝の本を読みたいの。ある限りの本を持ってきてくれない」という依頼があった。私の本棚はごちゃごちゃしていて、本を探すのは本当に大変だ。基本的に宮本輝の本は大半読んでいるはずなのだが、探してみると20冊くらいはすぐに見つかった。ただ、それ以上となると本棚をひっくり返さなければならないので、諦めた。

 秋田への土産はその本と、伊奈町の梨だ。

 翌日、今回の帰郷の目的、秋田の病院に入院している兄を見舞ってきた。本当にこの日は雲ひとつない快晴で、国道7号線から見える鳥海山が美しかった。

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