カテゴリー「自分史への序章」の18件の記事

2012年9月 7日 (金)

№1,710 思い出の山行

 ちょうど一か月前になるが、旧師から突然メールが入った報告をした。このブログには書かなかったが、その後、何度もOhno先生とはメールでやり取りをしている。

 Ohno先生は、埼玉大学経済短期大学部閉鎖に伴い、主事(学部長)として様々な苦労をしたことが語られていた。その中には、懐かしい恩師の名前も語られていた。Sakaibara先生、Akiya先生の名前を聞いたのは、学校を卒業して以来だから30年振りのことだ。そういえば、Shimizu先生の名前も語られていた。

 その当時のことをいろいろと思い出す。私はワンダーフォーゲル部に所属していたのだが、その顧問をしていたのがOhno先生だ。私より一回り年上だが、今でも山行をしているようだ。あちこちにガタがきて、山行も大変と書かれていた。それを読んでいるうちに、先生との2回の山行を思い出した。今日はそれを書いてみたい。

 わがワンゲル部は、ハイキング部に毛が生えただけの様なものじゃなかったかな。それでも年に何回かは北アルプスを目指した。一回り下の仲間のKohno君が提案したのだったと思う、餓鬼岳を目指そうということになった。私は、その当時相当北アルプスを踏破していたが、餓鬼岳だけは知らなかった。

 その山行にOhno先生も同行するという。

 喜作新道を通り燕岳を目指すのだが、その当時からもうメタボで、4時間ほどのきつい山登りを強いられた。燕岳に着いた時は空が真っ青だったので、あれは夏だったのかしらね。

 燕岳は、北アルプスの中でも人気の山だ。そして、ほとんどの人が表銀座コースを通って槍ヶ岳を目指す。わが一行は、その反対の道を通って餓鬼岳を目指した。餓鬼岳を目指すグループはほとんどいなかった。

 本当に静かな、しかもまっ平らな縦走コースだった。道々には、コマクサが満開に咲いていた。北アルプスを様々歩いたが、これほどコマクサの群生は初めて見た。30数年前のことなので、今でもこの群落は見られるだろうか。

 われわれ一行を見送っていたのはカモシカの親子だ。少々声をかけても逃げようとしなかったのは印象深い。その日泊まったのが餓鬼岳山荘だ。この山小屋もわが一行だけで、静かなものだった。この山小屋で温かな歓待を受けたもの印象に残っている。

 そして、餓鬼岳を降りた先には、信濃大町の温泉が待っていた。山行の無事を祝って乾杯をした。

 Ohno先生は、いつもきついブラックユーモアを放つことで有名だった。この山行中、その技は冴えていた。

 もう一つの先生との山行は、先日も書いた八ヶ岳だ。八ヶ岳のどこの温泉だったか、その後調べてみたら、間違いなく本澤温泉だ。小屋の周りには黒百合が咲いていた。そして、温泉の成分が真っ赤だったから、強い鉄分だったに違いない。

 次の朝、八ヶ岳の硫黄岳を目指すつもりだったのだが、夜遅くまで酒盛りが続いた。小屋の親父に「いい加減にしないか」と怒鳴られた。先生が率先して騒いでいたのではなかったのかな。

 翌朝、悪天候に山に登らずに帰ってきた。

 Ohno先生からメールがなければ、こんなことも思い出すことはなかったと思う。

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2012年8月 9日 (木)

№1,681 旧師からのメール

 私のブログメールを久し振りに開けてみたら、懐かしい旧師からのメールが入っていた。「《繭の里通信》にたどり着き、メールアドレスを知り、こうして通信している次第です。ハンモックでくつろぐ貴兄は、間違いなくシンさんと確信しました。様々にご活動とお見受けしました。お元気で何よりです。貴兄らしさは一段と発揮されているようですね」というメールだった。

 メールをいただいて連絡を取り合ったのは、1980年前後だから、30数年ぶりになるかしら、旧師のOhno先生だ。これもブログをやっていればこその便りで、本当に嬉しい。

 私は、大学という名の学校を3校ばかり卒業している。『C大学』と『埼玉大学経済短期大学』、それに『いきがい大学』だ。Ohno先生とは、埼玉経短でお会いした。

 その当時、私は勤めていた会社の人事異動で埼玉県鶴ヶ島の倉庫勤務が発令された。倉庫勤務といっても、ほとんど仕事のない閑職の職場だった。これを機会に少し勉強をしようと、いろいろな学校を物色した。きちんと基礎から英語を勉強したかった。

 そして、調べてみると埼玉大学が社会人に門戸を開く、夜間の経済短期大学があるのを知った。ただ、それを知ったのは秋で、翌年の春まで待つ必要はあった。大学は3年制だったが、私は学士入学で、2年で卒業できるという。試験も簡単なもので、ほぼ面接だけだったのではなかったか。

 ただ、大学の授業は本格的なもので、教養科目から語学、専門科目まで多岐にわたった。私はC大学でドイツ語を専攻していたので、この経済短期大学でもドイツ語を習った。ドイツ語を専攻しているのはわずか3人ばかりで、毎回翻訳を割り当てられて苦しんだことを覚えている。

 Ohno先生は、マルクス経済学の先生だった。いま、マル経という学問があるのかどうかは知らないが、その当時は近経かマル経のどちらかに分かれていた。私はOhno先生の経済学の授業を受けた。大教室で、100人ばかりの受講生がいたのではないか。その大教室の授業ではそんなに親しくはなれなかったが、ゼミで『資本論講読』を受講した。その指導講師がOhno先生だった。

 『資本論』を1ページ目から最後までゼミで輪読したような気もするが、残念ながらほとんど覚えていない。それ以上に、『資本論』に何が書かれているのかほとんど理解できず、挫折感の強いゼミだった覚えがある。

 Ohno先生とはそれだけではない。私は一廻り下の学友とともに、ワンダーフォーゲル部に所属していた。その顧問教師がOhno先生だった。先生とは、何度も山行を繰り返した。記憶にあるのは、八ヶ岳のある宿で夜遅くまで酒飲みをしていて、山小屋の主人にえらく怒られたことだ。

 正直いってゼミに参加する楽しみは、『資本論講読』よりも、ゼミ終了後に北浦和で酒盛りをすることだった。先生も含めた仲間で、ずいぶん酒飲みを繰り返した。

 そして、何よりも先生と一緒に行ったがスキーだ。長野県の戸隠に、私の知り合いが経営している【ロッジアルム】がある。そのロッジに、先生を伴って何度も出かけた。今では、私はスキーにはほとんど行くことがないが、先生はいまだ【アルム】通いを続けているという。

 またメールで先生は、こうもいっている。「後期高齢者の二年目。しかし、元気です。ウォーキングと近郊の山歩き、コーラスを楽しんでいます」。

 本当に懐かしい便りである。近いうちに、ぜひ先生と再会し、その後の近況を話し合いたいと思っている。そういえば、ほとんど連絡もとっていないが、あの当時のワンゲル仲間は元気なのだろうか。

 検索をしてみると、埼玉大学経済短期大学部は、1993年に学生の募集を止めているとのことだ。

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2012年3月 1日 (木)

№1,520 京都旅行ー余談

 京都旅行の締めくくりとして、今日は旅行を離れた京都にまつわる余談を話したい。

 実は、私は京都に半年ばかり住んでいたことがある。高校を卒業してすぐだから、もう40数年も前の話になる。京都の大学を目指そうと、田舎を出て一年間、浪人生活を送った。たまたま、今秋田にいる姉が枚方の団地に住んでいたので、半年間、その団地で寄宿生活をしていた。そして、後半の半年を京都で下宿生活を送った。

 下宿は、もう40数年にもなるからうろ覚えだが、たしか京都新聞社のすぐ裏で、京都御所にも近い、漢方薬の調製をやっていた家のような気がする。家の名前は、雨宮とかいったね。京都に来た機会に、うろ覚えの記憶を頼りに、訪ねてみた。

 40数年もたち、表通りはものすごく変わった。私の記憶するようなものは何もなかった。ただ裏通りに入ってみたら、ほとんど変わらない京都の姿があった。そして、目的の家は見つかったのだ。

052 雨森という、矢張りいまでも漢方薬の暖簾を出している家だった。懐かしさのあまり、暖簾をかき分けて訪ねてみた。そういえば、この下宿に帰ってくる時には、いつも暖簾を分けて入ったというかすかな記憶もある。

 50歳がらみのおじさんが出てきた。私は自分を名乗り、昔ここに下宿したのじゃないかと思う、と切り出した。そしたら、たしかにその予備校の生徒を受け入れていたことはある、との返事だった。

 部屋を見せていただけないものだろうかと尋ねたら、汚くて、しかも物置にしているので、とてもよそ様に見せるわけにはいかない、と断られてしまった。ウ~~ム、残念。京都は奥深く、なかなか他人は受け入れない。

 この下宿では朝晩の二食が出ていたが、今から考えてもとても粗食なものだった。そして、この下宿で思い出すのは、ここのお父さんとお母さんが、毎晩夜8時頃になると、決まったように怒鳴り合いの夫婦喧嘩をしていることだ。下宿人は私ともう一人いたが、始まると「またか」とニヤッと笑った。よくも、ああやって毎晩怒鳴りあえたものだ、と感心したことを思い出す。多分、出てきたおじさんは、その息子さんだろうが…。

059 せっかくだからと、通った予備校にも行ってみた。この下宿から、歩いて20分ほどだったろうか。いつも【京都御所】の脇を通ったが、見学はしなかった。この写真は【蛤御門】で、幕末にここで大きな戦乱があったのだ。健気にも、京都見学は大学に入学してからと決心し、どこにも行かなかった。今から思うと残念なことだった。

 この京都下宿でかすかに記憶に残っているのが、多分秋に行われる【時代祭】だ。下宿は烏丸通から一本入ったところにあった。表通りでコンチキコンチキと太鼓と笛を鳴らす音を、机にかじりつきながら聞いていた。

061 予備校は。烏丸今出川の交差点近くで、今でもあった。ただ、建物は新しく建て替えられたらしく、往時のものとは違っていた。

 田舎から出てきら浪人生には、何もかも珍しかった。そして、今でも記憶に新しいのが世界史の授業だ。先生の名前までは覚えていないが、「世界史というのは、暗記課目ではないのよ、わかる」というのだ。要するに、下部構造が上部構造を規定しているので、下部構造が分かると簡単というのだ。今から考えると、『唯物史観』を教えてくれたのだ。そんな考え方は初めて習ったので、非常に鮮烈な教えだった。世界史だけは、夢中になって勉強した覚えがある。

 その先生が教えてくれたことで思い出すのが、「【ダボ海峡】は大学入試に必ず出てくるので覚えておくように」との言葉だ。古代ギリシャは、エーゲ海を中心に文明が栄えていた。黒海とエーゲ海にある二つの海峡、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡はその重要な枠割を果たした。頭をとって【ダボ】だ。その海峡の名前だけは忘れるな、との意だった。

 その後、ボスポラス海峡を2度ほど旅した。この海峡に立つたびに、あの先生のことを思い出したものだ。

 女房にこのことを言ったら、「もし京都の大学に受かっていたら、私たちは会うこともなかったね」だって。もちろん、受験には失敗したのだ。そういえば、あまり名誉なことでもなかったので、このことは女房も含めて、今までほとんど誰にも話したことがなかった、青春の苦い思い出でもある。

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2011年12月31日 (土)

№1,458 ブログ記事で読む2011年

 さまざまな激動に明け暮れた2011年も、もう数時間で終わりである。誰もが言っていることだが、今年は歴史に残るほどの大変な一年であった。

 わがブログ記事を読みながら、2011年を振り返ってみたい。

  1月1日№1,085号で始まった2011年は、この記事で№1,458号を迎える。この一年で、373本の記事を投稿したことになる。多分、一日も欠かさずに記事を書き続けたはずだ。この飽きっぽい性分の私が、ここまでできるとは凄いことと、自分で自分を褒めてあげたいね。

 「シンさんちの《繭の里通信》」は来年の1月22日で丸4年になるが、ほとんど一日も欠かさずに記事を投稿し続けてきた。まあ、暇のなせる業か。とはいっても、暇だからできるというわけでもない。ブログに対する自分の思いが強かったからだと思う。

 さて、今年はどういう年だったのか、私のブログ記事で、この一年を振り返ってみたい。

 2011年1月

Img_4984 サッカーアジアカップで日本が優勝した記事が目についた。そういえば、夜中も眠いのを我慢してテレビにかじりついていたことが懐かしい。私にとってのスポーツは、以前はプロ野球だったが、最近ではすっかりサッカーの虜になっている。野球と違って、ワールドワイドなスポーツだけに、広がりがある。あまり良い言い方じゃないが、ナショナリズムが刺激されるね。普段は絶対に歌わない【君が代】を思わず口ずさむのも微笑ましい。

 今年一年全体もそうなのだが、この一月も那須滞在の記事が多い。「那須の大雪」という記事が目についたが、この年末の大雪に比べれば、ほんのわずかの雪だ。【いきがい大学の学生生活】も、そろそろ締めに来ていることが分かる。

 2011年2月

 そういえば、2月25日の記事に、「ニュージーランドのクライストチャーチで大地震」が載っている。この時には、まさかその二週間ほど後の大惨事など誰が予想していただろうか。日本の学生多数が、建物の下敷きになって死亡した。

 2011年3月

Img_6170 歴史に残る2011年3月11日である。私のブログ記事では№1,155号である。今でも記憶に新しいが、私はその時は那須で畑を耕していた。ゴ~~という地鳴りとともに、大地が波打って揺れた。頭がくらくらしてきて、一体何事が起ったのか。すぐに【あるるのいえ】に帰り、テレビをつけた。

 テレビに映ったのは、三陸や宮城県の大津波だった。私が見て悲惨に思ったのは、名取市の津波だ。田畑を静かに襲って多くの家を飲みこんでいく様に、「あの家には、大津波など何も知らずに住んでいる人が大勢いるのだろう」というショックだった。結局、死者行方不明者が20,000人弱出た。一人の死者には、それぞれの不幸。こんなにリアルな津波災害など、今後とも映像で見ることがあるだろうか。

 《東日本大震災》の大津波は、福島原発爆発という2次災害を生み出した。あらためて、原発の恐ろしさが身に沁みた年でもあった。この地震で、予定されていたいろいろな催しが中止になった。2年間通った【いきがい大学】の卒業式も、その一つだ。代わりに自分たちの手で挙行した【卒業証書授与式】も、思い出に残るものだった。

 2011年4月

P3170001 やはり、投稿記事には、地震の影響の余波が色濃く残っている。このころは、計画停電が話題になっていた。皆が自粛自粛で縮こまっているなか、何度かお花見をした記事がある。皆、元気を出そうや、という思いが強かった。この時期ならではの、花粉症の記事も目につく。来年の春は、杉花粉がそんなに多くないという報道を読み、安心している。

 月末に、横浜の姉夫婦と女房共々秋田に帰郷した。秋田も桜開花の時期で、皆で弘前にお花見に行った記事がある。体が不自由な秋田に住む兄も一緒に行けて、とても嬉しかった。若干、お花見には早かったがね。久し振りに、田舎の町を散策したのも印象に強い。

 2011年5月

P5100008 今年の新たな挑戦、【男の料理教室】が始まった。これは、いきがい大学を卒業した仲間で始めた新クラブで、月一回の定例会を行っている。その都度に記事にしてきた。クラブ員が、いきいきと料理に取組む姿が印象深い。相変わらず、那須滞在の記事が目につくが、この月には茶臼岳に登った。【那須平成の森】が開園したのも、この月だ。

 長野にAkioさんを訪ねて行った。山菜採りに挑戦するつもりだったが、生憎の雨で中止になった。帰りは松本に立ち寄り、久し振りに従兄のKojunさんに会ってきた。私より何カ月か歳上なのだが、背が少し縮んだ印象があった。気のせいかしらね。

 2011年6月

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P5230011 いきがい大学卒業の仲間10人で、仙台に【震災ボランティア】活動に出かけてきた。2泊3日のボランティア活動だったが、それはそれはものすごくショックだった。多賀城郊外の七ヶ浜を見て歩いたのだが、津波被害で建物がすべて波にさらわれていた。久し振りに、仲間でボランティアの汗を掻き合ったね。

 秋田の姉が、那須に遊びに来たのもこの月だ。八幡のつつじ見物に行ったり、マウントジーンズのゴヨウつつじ見物でひと時を過ごした。姉はあの那須の滞在に味をしめたせいか、その後も何度か那須に来ている。

 2011年7月

P7060026 7月の定例行事は、梅干漬とゴルフ合宿だ。梅干作りも、自分で言うのもなんだが、年々上手になっているような気がする。手際も良くなった。そして、今年は第5回目のゴルフ合宿を那須で行った。参加者は、本当に私の人生にとっての良い仲間だ。こういう人たちと会えて、本当に良かった。

 ちなみに、私のブログ登場でもっとも有名な友人Hozumiさんが何度記事に書かれているか数えてみたら83回であった。本人を知らない私のブログ読者も、Hozumiさんの名前だけは知っているのには笑ってしまう。

 7月は、さらに日本中を沸かせたスポーツがあった。【なでしこJAPAN】が、ワールドカップサッカーで優勝した。それまでは女子サッカーなど見向きをする人も少なかったが、これで一挙になでしこがクローズアップされた。なでしこの奮闘に、今でも心から拍手を送りたい。震災で落ち込んでいた日本を、一躍活気づけた功績は大きい。

 2011年8月

008 例年のことだが、8月は暑い埼玉を避けて、ほとんど那須に滞在している。本当に那須の涼しさは堪えられない。夜、ぐっすり眠れるのが何より良い。友だちのKiyomiさんのお母さんも、今年は4カ月ほど那須で避暑生活を送った。

 8月7日には、そのお母さんを誘って大田原の【与一まつり見物】に行ったのも印象深い。さらに、県活のパソコン講座【画像処理ステップアップ】を受講したのも8月末だ。好奇心旺盛というか、向学心に燃えているのが私の元気の源だ。

 2011年9月

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 やはり那須の記事が、自分の印象に残っている。なかでも、Kiyomiさんのお母さんと二人で、二期倶楽部で行われた観月会に行ったのは印象深かった。いきがい大学の仲間で東京湾クルーズ、その後の浜離宮庭園散策、打ち上げは浅草でのビアパーテーも大きなイベントだった。

 9月末に、秋田で高校の同期会があり、参加してきた。同期会とは別に、秋田の大きな酒蔵に婿養子で入った大学の同級生と秋田で会ったのも、今年の印象深い出来事だ。同期会の次の日はゴルフ、その帰りに田沢湖温泉ホテルで、同期の仲間で一泊した。彼らも、皆本当に良い仲間だ。

 私は車で行ったので、帰りは一人で被災地を見て歩いた。陸前高田市・南三陸町・気仙沼市と悲惨な津波被災現場を見て歩くにつけても、【百聞は一見に如かず】だなとつくづく思った。1000年に一度の大震災だったのだ。

 2011年10月

Pa230001 今年の6月に始めた俳句、始めたからにはどうにかしたいと、県活の【俳句講座】を受講した。一歩動けば様々な出会いがある、の例え通りいろいろな人に出会えた。何より驚いたのは、この講座の助っ人で来ているSenshuさんは高校の大先輩だとわかったことだ。この講座で指導を受けた句が、わが高校の句会の撰者12月特選に選ばれたのも嬉しかった。

 さつまいも 濡れ新聞に 落葉焚

 女房の【寧】での展示会も、この月の話題の一つだ。サイドバーにある展示会の様子は、今でも思い出す。今年三度目の茶臼岳登山も印象に残る。下山後、Ageちゃんの手打ち蕎麦をお腹一杯に頂いた。

 2011年11月

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 合同研修会があった。今年は、この研修会成功のために、仲間でいろいろな努力をした。750名ほど集まった研修会は大成功に終わり、先輩方からの評価も高かった。研修会のイベントに参加していただいたお二方の先生には感謝、感謝だ。

 このイベントを無事に乗り切って、女房と7泊8日のベトナム旅行に出かけたのはこの月の末だ。本来は、5月下旬にモロッコ旅行に出かける予定だったが中止になった。その代わりに行ったベトナムは、ものすごくよかった。女房は、来年も海外大旅行を計画しているようだ。

 2011年12月

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 私のブログは、「飲み会とゴルフだらけのブログじゃないか」と悪評がたっているが、一年を通してみると、そんな事もないような気がする。それでも12月は、矢張り忘年会が多かった。自制して、飲み会すべてを書いているわけではないが、むしろサラリーマン時代よりも多いような気もする。これも仲間が増えた証拠、と読み説いてもらいたい。

 金正日が亡くなったのも、忘れられない事件だ。

 最後になるが、私のブログ記事はとかく文章が長いと評判が悪い。それにもかかわらず最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 来年は、皆さまにとって良い年でありますようにお祈り申し上げます。

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2011年2月 4日 (金)

№1,119 父親について語ろう

 2008年の暮ごろに【自分史への序章】として、13本ほどの記事を書いている。秋田の田舎から東京に出てきての奮闘記だ。女房との出会いも書いており、今でも語り草になっている。その後のことで書くことがいっぱいあるにもかかわらず、なぜかしらやめてしまった。

 先日、いきがい大学の授業で「自分史の作り方」と題して、元埼玉自治研修所長深井明さんの1時間半ばかりの講義があった。お話しされた大筋は、会社を退職したシニアこそ、自分の人生を振り返る時間的な余裕ができた。自分の人生を振り返リ語ることで、子どもや孫、さらには後世に教訓として残すことは山ほどあるはずだ。

 今、核家族化の中でなかなか自分の経験、体験が子どもたちに伝えられていかないなかで、自分がこの世に生きてきた【証】を残すことが重要なのではないか。それが強いては生きがいにつながり、脳を活性化することにもつながる、という話だった。同感だ。

 私はこのブログで、自分の人生の一端を書き続けている。ただ、日々のよしなし事が主で、なかなか自分の生きてきた人生を語り継ぐところまでには至っていない。存命の方も多く、語り続けることによる支障も多い。それでも、今でなければ語れないこともまた多いのも事実だ。今後、支障のない程度で、思い出すままに断片的に語ってゆきたい。

 秋田の田舎の甥もこのブログを読んでいるようだ。前々から思っていたのだが、彼に語るつもりで、今日は私の父親のことを語ってみたい。

 私の父は明治44年(1911年)生まれだから、生きていれば今年でちょうど100歳になっているはずだ。彼は存命中、口癖のように「自分は100歳まで生きるんだ」と宣言していた。たしか74歳で、大腸ガンが原因で亡くなっている。その当時、ガンは決して本人に伝えてはいけないといわれていた。周りの気遣いで言わなかったのだが、キット本人は自分がガンだとは分かっていたはずだ。

 つくづく考えるに、わが父は息子から見てもなかなか魅力的な人だったのではなかったろうか。

 魚屋を商売としていたが、商売は決して上手とはいえなかった。江戸時代から伝わる商売だったが、父の武士の商法的なやり方で、祖母が残した財産をほぼ食いつぶしたといってもよい。お金がなくて、毎日ピーピーしていた。たまには怪しげな金を手に入れてくる、それが後には大きなしっぺ返しとなって帰ってきた。膨大な借金を作った、いわば落ちこぼれ親父だ。

 商売はさておいて、随分面倒見が良かった。彼は魚屋の商売が嫌で、上級学校に進学し学校の先生になりたかったらしい。密かに上級学校を受験をしたことがのちに祖母に分かり、きつく進学を止められたようだ。仕方なく商売についていたが、あまり熱心な商売人とはいえなかった。一心に商売に取り組むというより、ムラ気が多かったような気がする。

 そういえば、『おでんさん』というウチのおばあさんは、私にとっては「オニババ~」のように怖い存在だった。兄弟の長女、長男はずいぶんかわいがられたらしいが、6人兄弟の5番目の私は歯牙にもかけられなかった。自分はかわいらしくない孫で、憎たらしい悪口雑言を随分放ったのではなかったのかな。そのばあさんがなくなったのは、私が小学6年生の時だ。

 商売は下手だったが気の良い父は、街作りに貢献した。わが故郷は城下町だったが、街路にしだれ桜を植えようと骨折った。【日本さくらの会】と折衝して、当時、何百本という苗を手に入れ、一軒一軒説得して植えていった。今、そのしだれ桜はどうなったのだろうか。

 酒が好きだった父は、飲むほどに酔うほどに、兵隊として中国に行ったときに覚えてきたのか【シナの夜】という唄に乗って、赤い腰巻を腰に巻き、頭にスカーフをかぶり踊るのを得意にしていた。宴会が興に乗ると、必ずその踊りが出た。今でもそのシーンがまぶたに思い浮かぶ。

 町の町会議員を何期かやっていたが、選挙には決して強くなかった。当選しても最下位か、よくてもその上だった。あれを見ていて、私は決して選挙で洗礼を受けるようなことはやるまい、と心に強く誓ったものだ。幸い、私の人生でそういうことはなかったのだが…。

 あまり詳しくはないのだが、町議時代に文教政策に力を尽くしていた。随分学校のことを心配していたのを思い出す。そして、町の商工会会長を長くやり、年老いては老人会の会長として老人の厚生に力を尽くしていた。ジジババを連れて、旅行団長として全国を旅していた。亡くなった時、有り難いことに【名誉町民】として表彰された。

 昭和20年代から30年代の初めころだったろうか、なかなかその頃の家長はえらかった。子どもたち家族が皆ハン台で食事をするのだが、一人だけ朱塗りのお膳で食べていた図を思い出す。

 父というと必ず思い浮かぶのが「宝くじ」だ。お金に苦労したせいか、一攫千金を狙って宝くじを必ず買っていた。その宝くじは、後生大事にと金庫の奥にしまっていたのを思い出す。不幸にして、当選したという話は聞いたことがなかったが…。その影響で、私は決して宝くじは買わないことにしている。

 また、運転の好きな人だった。運転免許証を手にしたのは50歳を過ぎてからだ。それからは、助手席に母を乗せて全国を旅していた。東京にも時々、孫の顔を見にひょっこり現れた。今でも思い出すのは、ある晩、一人でウチに突然現れたことである。「ケンカして家出をしてきたんだ。秋田の家には何も言わないように」と平然と言っていた。結末はどうなったのかは覚えていない。

 7月が誕生日なので、今年は田舎に帰って盛大に100年祭をやりたいと思うが、いかがだろうか。

 この記事を書いて24時間になるが、次から次へと父のことを思い出す。これ一回限りではなく、思い出すたびに綴ってみたい。

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2008年12月12日 (金)

№329 常盤台を引き払う(常盤台時代5)

 彼女と一緒にアパートを借りて住もう、といったって金があるわけでもないし、何の用意もない。Yasuyuki君に電話をし、10万円貸してくれないかとお願いした。その当時の10万円は、今の何倍も価値がある金だ。

 彼は飛んできた。どういう事情なのか、詳しく彼に話をした。そしたら、お母さんから金を借りてきてくれたらしい。先日久し振りに会ったら、その金はまだ返してもらっていないと言うのだ。返したとも、返さないとも、全然記憶にはない。

 さらに、南林間にいる姉のところに事情を話しに行った。姉はそういう関係は認めるわけにはいかないし、そんな女の子とは会いたくもないと、すげない返事だった。

 岐阜の彼女の親にも、長々と手紙を書いて、了解を求めるお願いした。彼女の親父さんは謹厳実直と聞いていたので、相当怒られることを覚悟していた。意外にも、すんなり了解の手紙をいただいた。お祝い金も送ってきてくれた。

 秋田の親にはどうしたのかは覚えていない。多分暴れん坊だったので、了解を求めると言うより、結婚宣言をしたのだと思う。もう呆れて、何もいってこなかったのだと思う。

 なんと、彼女とは会ってから2ヶ月足らずだった。

 どこに住もうか不動産屋さんを渡り歩き、引っ越した先が石神井公園だった。常盤台には9ヶ月住んでいたが、以上の事情から本当にフラフラしていて、このアパートには居ついたという記憶がない。アパートのばあさんには、ものすごく嫌われていたことはたしかだ。

 大学のゼミの先生が主導して、学生仲間が集い、新宿でお祝いの会を開いてくれた。祝い事はそれだけだった。従って、わが家には婚約とか結婚に関わるような写真は一切ない。

 女房には、結婚指輪もあげなかった。今でも怨み言のように言われてはいるが・・・。

(常盤台時代終わり。続きは、またいつか再開します。お楽しみに・・・)

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2008年12月11日 (木)

№328 ベートーベン生誕200年コンサート(常盤台時代4)

 Moっちゃんが、ベートーベン生誕200年の記念コンサートのチケットを4枚買ったとのことだ。12月16日ベートーベンの誕生日に、日本武道館で「第九交響曲」のコンサートが開かれるとのことで、そのチケットを購入したようだ。

 彼は、西武新宿線のある駅のアパートに住んでいた。その部屋の隣の女の子をコンサートに誘うつもりらしい。

 私の住んでいる常盤台のアパートにも、隣の部屋に女の子が住んでいることは気配で分かっていた。壁が薄くて、隣の部屋の動きが手に取るようにわかった。ただ、自分はあまり常盤台のアパートに居つくことはなく、顔も見たことはないし、もちろん声を交わしたこともなかった。

 Moっちゃんが隣の子を誘うならと、自分も隣の子に声をかけてみた。ドアをノックして、隣の部屋に住むものです、突然ですがコンサートに行きませんかと。彼女は乗ってきた。ぜひ行きたいと言うのだ。それでは2ペアで、ということになった。

 ところが、コンサート当日、Moっちゃんがむち打ち症で再入院した。どうもコンサートにはいけそうもないとのことだった。病院に見舞いに行ったら、首を伸ばす「首つり機」に乗っかって、首の筋を伸ばしていた。

 コンサートには私たちペアと、Moっちゃんの相方は妹さんと来ていたようだ。そのコンサートがきっかけで、隣の女の子とは急速に接近していった。何しろ隣の部屋なもので、飯食いに行こう、銭湯に行こう、映画を見に行こう、散歩に行こうと、すべてが一緒だった。お互いの部屋にも入りびたりだった。

 ただ、アパートのばあさんからは不振な目で見られていた。彼女は、あの男は過激派だから注意をしたほうがいいよ、とたびたび忠告を受けていたらしい。

 禁止されるとますます燃え上がるのが世の常だ。一緒に出歩き、時差をつけて帰ってきてはいたが、そんなものはすぐにばれた。

 ばあさんに、このアパートでの男女付き合いはご法度、すぐこのアパートを出て行ってほしいと宣告された。どうするのかお互い悩んだが、どこかアパートを借りて一緒に住もうかということになった。

 その彼女が、今の女房だ。(つづく)

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2008年12月10日 (水)

№327 再度、北海道へ(常盤台時代3)

 秋田の実家から常盤台に戻ったのは9月上旬だった。そのうち、苫小牧時代の会社の責任者から電話が入り、北海道の標茶で仕事があるのだが行かないか、と誘われた。標茶は釧路の奥、弟子屈の隣町だ。

 まあ、自分には特別に東京にいなければならない理由もないので、そのお誘いを受けた。苫小牧時代もその責任者を間近で見ていたのだが、彼は胃潰瘍で胃がないのにも関わらず、毎晩、大酒を飲み、女にだらしなく、金にだらしなかった。ただ、仕事はきっちりできた人だった。名前はなんと言っただろうか?

 標茶での仕事は、甜菜糖(砂糖大根)工場の解体作業だった。9月なのに、北海道はえらく寒かった。一人のつもりで行ったのだが、そのうち、また学生仲間がこの地にやってきた。Ezaki君。Moっちゃん、Akira君の3人だ。

 工場の解体工事で、梁に上ったり、アセチレン溶接で工場の鉄骨を焼ききる仕事をしていた。

 忘れられない事件がある。ある日(11月25日)、知床半島の付け根の斜里町に仕事で出かけた。仲間も一緒だった。車のラジオをつけたら、三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地に突入したというニュースをやっていた。おい、こいつは死ぬつもりだぞと話していたら、案の定、そのうち割腹自殺を遂げたとのことだった。三島が割腹したとき何をやっていたか、よく語られるが、自分は印象的に北海道にいた。帰りに立ち寄った「霧の摩周湖」が晴れていて、珍しくきれいに見渡せた。

 さらに事件が起きたのは、三島事件からまもなくのことだった。私は、責任者が苫小牧で用事があるとのことで、運転手としてついて行った。苫小牧に2~3日滞在して帰ってきたら、仲間の3人が入院したとのことだ。何があったのか聞いたら、標茶の現場の社員と弟子屈に酒を飲みに行ったらしい。帰りに酔っ払い運転で、車が田んぼの中に突っ込んで横転してしまったとのことだ。運転していたのは、その現場の社員だ。Akira君が鎖骨を折り、Moっちゃんがむち打ち症、Ezaki君は軽い打撲だった。

 Akira君の症状が軽くなるのを待って、一緒に飛行機で東京に帰ってきた。釧路空港からだったが、気流が悪く、プロペラ機がものすごく揺れた。墜落するのではないかと恐れたことを、懐かしく思い出す。

 東京に帰って来たら、師走だった。この12月は、またとんでもない出来事が待っていた。(つづく)

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2008年12月 9日 (火)

№326 アルバイトで苫小牧に(常盤台時代2)

 しばらく常盤台のアパートで居食いの生活をしていたが、そのうち、金に詰まってきた。その時、前のアルバイト先から、北海道苫小牧でアルバイトがあるから行かないか、との誘いを受けた。少し気分転換にもいいか、と引き受けた。常盤台のアパートでじっとしていたのは1ヶ月ちょっとだった。

 苫小牧は、日軽金(今でもあるのかしら)の工場建築現場だった。苫小牧に行くついでに、東京から車を運んで欲しいという依頼もあって引き受けた。その当時は東北自動車道などという高速道路もなく、延々と一般道を走った。

 東京を発ったのは夜だった。今でも忘れない、岩手県の盛岡市郊外のバイパスを走っていたのが朝の8時頃だ。多分、夜も寝ないで走っていたので、ボーっとしていたのだろうか。スピード違反で白バイに捕まってしまった。その警官に、苦学生でアルバイトで北海道に行く途中だ、金もないので勘弁してくれ、とお願いした。その警官も事情は分かった、ただ、春の交通安全週間で自分も成績を上げなければならない、22キロオーバーだったが19キロにまけてやろう、違反金が少ないはずだ、と妥協してくれた。

 北海道に渡るには青森市からのフェリーもあったが、できるだけ安くと大間港まで行った。大間の町に行くと、函館の火が間近に見えた。ただその日は青函海峡が大荒れで、大きなフェリーだったが、ものすごく揺れた。たしか、東京から大間まで道のり800キロぐらいだったか。

 苫小牧では、鳶職みたいなことをやっていた。1人で行ったつもりが、そのうち学生時代の仲間何人かも苫小牧にやってきた。誰が来たのかは覚えていないが、一人だけはっきり印象に残った奴がいた。Kenちゃんだ。彼は淡路島の坊ちゃんだ。とても汚れ仕事ができそうではなかったが、建築現場の高い梁をひょいひょい歩いている。本当に危なっかしくって見ていられなかった。

 苫小牧の建築現場は、荒涼としていて、本当に何もないところだった。従って印象もきわめて薄い。そこで2ヶ月くらいアルバイトをし、7月はじめに東京に帰ってきた。

 もちろん、常盤台にアパートのばあさんには何も言っていない。アパートにいたのもわずかで、秋田の田舎で夏を過ごすことにした。実家に2ヶ月もいただろうか。

 ある日、父親に、アパートの家主のばあさんから電話が入った。お宅の息子は、ちっともアパートに寄り付かない、学生運動の過激派で、どこかで悪さをしているのではないかという忠告だった。その電話の脇にたまたま自分はいた。電話を変わってもらって、自分は帰省していることを告げた。ばあさんのきょとんとした顔が目に見えるようだった。本当に笑い話だ。(つづく)

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2008年12月 8日 (月)

№325 東上線常盤台に引っ越す(常盤台時代1)

 東京に来てからの瘋癲生活を「自分史への序章」として連載している。前回の池袋時代を書いて、すでに1ヶ月以上経過した。今回は4~5回に分けて、常盤台時代のことを書いてみた。

40029  池袋から常盤台のアパートに引っ越したのは、1970年の4月だった。駅から7~8分のところだ。

 小銭もあり、しばらくはアルバイト無しの生活を送って いた。そのアパートは、1階が3部屋に2階が3部屋のこじんまりしたところだった。私は1階を借りたのだが、何より南に小さな坪庭があり、床の間があるのが気に入った。小さな台所もある6畳間の畳部屋だ。その当時は、1畳1000円が相場だった。たしか、部屋代は6000円と記憶している。

 池袋の丸井で卓袱台を買ってきて、しばらく本を読む生活をしてみたいと思った。さらに、生活必需品として、洗濯機を買ってきた。また、ラーメン1箱買ってきて、なるべく生活費を切り詰めようと考えた。

 卓袱台は、40年たった今でも、那須のウッドデッキのテーブルとして活躍している。このテーブルを見るたびに、その当時のことが偲ばれる。たしか、月賦で買ったものだ。

 家主のばあさんと中年のお嬢さんが、矢張り、一階に居を据えていた。少し騒がしくすると、注意しに飛んでくるばあさんだった。

 常盤台時代で何より懐かしいのは、インスタントラーメンだ。1箱30個入りのラーメンで、しばらく生活をしていた。朝・昼・晩とラーメン漬けだ。具として卵を入れるだけだった。20日間ぐらい食べていただろうか。もう見るのもいやになった。ただ、学生時代の仲間が部屋に来てこのラーメンを食べ、「こんなおいしいラーメン、食べたことがない」と言ってくれたのが、今でも印象に残る。

 それと残像として残っているのがハーモニカだ。夕暮れ時、ガラス窓を開け、坪庭でハーモニカを吹くと、しみじみと郷愁が湧いた。胸がきゅんと締め付けられたことを強烈に思い出す。

 友だちを呼んできては、人生を語り、社会を語り、本の感想を話し合ったのはこの時期だ。Yasuyuki君、Kenちゃん、Akio君、Akira君、それと名前は忘れたが通産省に就職した友が常連だった。

 洗濯機も新たに手に入れた。それまでは南林間に住んでいた姉のところにどっさり洗濯物を持ち込んで、洗濯をお願いしていた。そういえば、この姉には物心両面でえらく迷惑をかけっぱなしだった。金の無心をしたのだが、姉も娘が生まれたばかりで、生活に苦労していただろうに、文句を言いながらも金を貸してくれた。出世払いということだったが、今まで1銭も返していないな~。

40030_3  先日、久し振りに常盤台を訪ねた。何度も歩いてみたが、ついにそのアパートを発見できなかった。一体、どこだったのだろうか?(つづく)

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