カテゴリー「文化・芸術」の5件の記事

2009年2月24日 (火)

№403 村上春樹に拍手を!

 先日、何気なくテレビを見ていると、村上春樹が珍しくテレビに出ていた。なんでも、イスラエルに出かけ、文学賞「エルサレム賞」を受賞した場面だった。この賞は、「社会における個人の自由」に貢献した文学者に贈られる文学賞とのことだ。

 ニュースでは、そこでの受賞スピーチが「壁と卵」ということで紹介されていた。ものすごくエスプリとユーモアのきいた良いスピーチだったので、全文読みたいと思った。幸い、新聞広告を読むと「週刊朝日」で全文採録とあったので、買って読んでみた。

 村上のスピーチを3回熟読した。そのうえで内田樹の解説を読み、再度スピーチを読んだ。本当に素晴らしいスピーチだったと思う。

 彼はこの賞を受けるかどうか悩んだようだ。仲間からは、授賞式に行くなら著書の不買運動を行うと警告された。

 あまりにも多くの人が授賞式に「行くな」と言ったから、エルサレムに行くことを決意したようだ。

 スピーチの初めにはユーモアのきいたまくら言葉が並んでいる。会場に詰め掛けた人たちの爆笑を誘った。

 小説家というのは嘘をつき、人をだますことを商売としている。その嘘がより面白く、大掛かりであるほど称賛を受ける、因果な商売だという。ただその嘘の裏には「真実」が隠されているというのだ。それだから、フィクションには説得力がある、と述べている。

 今イスラエルで行われていることに真実はあるのか、と問う。ガザ攻撃のことである。

 「高くそびえる壁と、壁にぶつかるとこわれてしまう卵があるとすると、私はいつでも卵の側にたつ。たとえどんなに壁が正しくて、卵が間違っているとしても。私はつねに、卵に寄り添います

 なんと、敵地イスラエルに乗り込んでの潔い宣言であることか。しかも、ものすごいきれいな英語でのスピーチだった。

 日本にもこのような最高の知性がまだ残されているのだ、と本当にうれしくなった。

 彼の本はほぼ読んだつもりでいたが、『辺境・近境』で、私が今関心を持っているノモンハンのことにも言及しているようだ。

 もう一度読み直してみようと思った。

 

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2009年2月23日 (月)

№402 若気の至りに赤面―埴谷雄高

 先日の井上靖さんの話の延長で、埴谷雄高さんのことを書いてみたい。

 埴谷雄高さんは、1907年のお生まれだから、生きていると今年でちょうど100歳になられる。残念ながら1997年に亡くなられた。

 私は埴谷雄高さんには、今でもすまないことをしたと、あの時のことを思うと慙愧の念に耐えない。

 実はこういうことがあった。矢張り40年も前のことであろうか。学生時代であった。

 法政大学のある教室で、「文学的立場」同人の講演会があった。その当時のゼミの先生に誘われて聴きにいった。一緒に行ったのは、今自民党の衆議院議員である某だ。

 私はその当時は、なんとも生意気な「マルクスボーイ」だったのではなかったのか。唯物論の、「存在は意識を規定する」という考え方に凝り固まっていた。

 多分、埴谷さんが講演するなどということはめったになかったのだろう。その教室は満員だった。その当時は、埴谷さんは一種のカリスマ的存在だったのではなかっただろうか。

 埴谷さんの講演内容は、もう何十年にもわたって書き続けられていた『死霊』についてだったと思う。夢の話しが出てきた。そのお話の中で、自分には夢に出てくることが現実で、現実に起きることは夢みたいなものだ、という論を展開した。

 「存在が意識を規定する」のではなく、「意識が存在を規定する」というのが自分の今の心境であるという話だった。その上で、夢にみたお話を延々となさっていた。

 そんな馬鹿なことがあるもんかと憤慨し、そんな大きな教室でもなかったのに、埴谷さんに「ナンセンス」と野次を飛ばした。さらには下品にもゲラゲラ笑い、イライラしてこれ見よがしにタバコをすって、大きな煙を吐いた。埴谷さんの不快そうなお顔が今でも目に浮かぶ。

 帰りがけに、お誘いをいただいたゼミの先生を捕まえて、埴谷は狂っていると罵倒した。ゼミの先生も苦笑していた。

 その後、埴谷さんの本を読む機会があり、あの時はなんと馬鹿なことをしたものだと、本当に恥ずかしい思いをしている。今でもそのことが、心の奥深くで、トゲとなって残っている。

 人の縁とは不思議なもので、その後、埴谷雄高さんとは囲碁仲間になった。

 高田馬場のある呑み屋のママを中心に、囲碁の好きな仲間が集まって、市ヶ谷の日本棋院で2ヶ月に1回、囲碁大会が開かれていた。私の囲碁好きなことを知ったママに誘われ、何度か出かけた。

 あれは井上光晴さんが亡くなる前後だったから、1992年ごろだったと思う。錚々たる文学者が集まっていた。またその会には、必ず埴谷さんが参加していた。汚いシャツを着、股引姿だった。しかし、楽しそうに碁盤に向かっている姿が微笑ましかった。

 埴谷さんの腕前は4~5級といったところで、決して強くはなかった。一番お手合わせをお願いしたら、「お前のような強い奴は相手にしない」と、断られてしまったことを覚えている。

 その後も、何度かその囲碁会で一緒になったが、あの法政大学での無礼をとうとう謝る機会がなかった。

 先生も覚えていたかどうかは知らないが、無礼を働いたことが、私の心の中には大きな傷となって残っている。

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2009年2月17日 (火)

№396 「副島隆彦・佐藤優」講演会

 評論家副島隆彦と作家佐藤優のジョイント講演会が新宿の紀伊国屋ホールで行われ、いってきた。Masaeさんからのお誘いを受けたものだ。『暴走する国家 恐慌化する世界』(日本文芸社)という本の刊行記念講演会とのことだった。

 佐藤優さんはおなじみの作家だが、副島隆彦という人は不勉強にして知らなかった。講演会のテーマは、「激動する世界、そして日本―大恐慌から、テロリズムとファシズム、、新統制経済体制の時代へ」と大仰なものだ。

 実のところ、あまり期待して講演会に参加したわけではなかったが、なかなか面白かった。こういう講演会は、大胆なこと、無責任なこと(?)を言う人がいると面白いことはたしかだ。

002  副島隆が言ったのは、概ね次のようなことだ。

 ヒラリー国務長官が、何をおいてもまず最初に日本を訪問したわけはなぜだと思うか。マスコミはほとんど報じていないけれども、アジア外交を重視したからなんていうのはとんでもないウソだ。ニュースの裏面を見る必要がある。

 アメリカ経済立て直しのために、オバマ政権は大量のアメリカ国債を発行しようとしている。そのうち、60~70兆円を日本に買わせるために来たのだ。日本にはいやだという決断はない。しかも、今の円高がさらに嵩じて、5年後には1ドル30円くらいまでなる。日本はそれでなくても、今でも大量のアメリカ国債を抱えている。さらにこれだけ買うとなると、将来は紙くずを沢山抱えるようなものだ。アメリカの狙いはそこにある。

 日本の税金が、大量にアメリカに吸い取られるという構造なのだ、と主張していた。

003  さらにロシアの事情通・佐藤優の話も面白かった。

 今、元首相小泉純一郎がロシアを訪問しているわけを知っているかい。「アメリカのポチ小泉」は、アメリカの代理人として、ロシアにアメリカ国債を買うように、メドベージェフの説得に向かったのだ。原油が1バーレル35ドルと低迷し、ロシア経済は青息吐息だ。アメリカ国債を買うなら、原油の値上げに一役買ってやろうというアメリカの主張を伝えるために、小泉はロシアに行っているのだ。

 ロシアの招待を受けて麻生が近く樺太を訪問し、メドベージェフと会ってくるという。これも真っ赤なウソで、日本から会うように頼み込んだものだ。不人気の麻生が一発逆転を狙って、北方領土問題を解決し、人気回復しようという裏技だ。

 そのために国を裏切り、歯舞・色丹の小島返還だけで平和条約を結ぼうとしている。択捉・国後を捨てようとしている。こんなことが許されるはずがないじゃないか、という。

 二人の論は、物事には必ず裏街道があり、その本質を見なければ何もわからないというのだ。決してマスコミは伝えようとしない。

 例えば「地政学」という学問があり、地理的に政治を見るというものだが、これが悪魔の学問だというのだ。ナチスドイツも、プーチン・メドベージェフのロシアもこれだと決め付けていた。

 さらに、日本を駄目にしているのは東大法学部出身の官僚だ、諸悪の根源はここにあるという。その上で宦官論の歴史に話が及ぶ。

 副島は盛んに“Ratio”ということを言っていた。アリストテレス「ニコマコス倫理学」からきている概念で、rational、rationarismにつながる思想で、金儲けをしようという思想だ、とのことだった。

 これからの時代を見据えて、副島も佐藤も右翼だが、今こそマルクスの『資本論』『賃労働と資本』を読むべきだとも主張していた。神学の話もしていたね。

 最後にファシズムの話になった。佐藤優によると、ファシズムとナチズムは違う、ファシズムはもっと歴史があるのに対し、ナチズムはヒトラーの時代の特殊現象だという。今新たにムッソリーニの偉大さを再認識する必要を強調していた。

 そういえば、佐藤優はファシスト「小林よしのり」と論争しているようだ。副島隆彦が揶揄的に紹介していた。小林よしのりを相手にするなんて、消耗の極みだね。 

 まあ、話があちこちに飛んでしまって、講演会というより漫談会の趣だった。

 講演会に参加している人たちを指し、「あなた方は読書階級で本を沢山読んでいるかも004 しれない。しかし、そういう人たちは世の中にほとんど影響を及ぼさないんだよね」と失礼なことも言っていた。反面、真理かもしれないが・・・。

 しかしマンガばかりで本を読まない人は、某国の宰相のように万人の面前で、字も知らない奴、と馬鹿にされ、恥をかくのがせいぜいだとも決め付けていた。

 様々な本の紹介もしていた。副島が薦める本は、『三つの帝国の時代』(講談社)、佐藤優が言っていた本で読みたいなと思ったのは『アベラールとエロイーズ』(岩波文庫)だ。

 2時間の講演会というのはあっという間だった。こういう講演会は、知的な刺激を受けるし、なかなか勉強になって良い。

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2009年2月14日 (土)

№393 心に残る人―井上靖

Yasusiwebthumb  いつかこのブログに書こうと思っていた人がいる。作家の故井上靖さんのことである。

 忘れもしない出来事があり、あんな強烈に印象に残った人はいない。

 井上靖年表を見ると、多分1982年秋頃のことだと思う。『本覚坊遺文』(1981年)が出て間もない頃のことだ。

 ある縁で、福島市で井上靖さんの講演会を開きたいというので、井上靖さんへの口利きを頼まれた。井上さんに打診したら、引き受けるとのことだった。

 ちょうどその頃、井上さんはもしかしたらノーベル文学賞を受賞するのではないかという憶測から、マスコミが大騒ぎしていた。本人もその渦の中にいて、福島まで出かけるのは困難なのではないか、心配した。

 しかし、井上さんはたとえどのような事態になろうとも約束は果たす、と確約してくれていた。残念ながら、ノーベル賞受賞にはいたらなかったのだが・・・。

 講演会当日、井上さんはぎっくり腰で立ち上がれないという情報が入ってきた。2~3日前から寝たきりの状態だという。

 井上さんの講演を楽しみにしている聴衆で、福島県立公会堂はすでに申し込みで満員になるだろうと予想された。関係者は、皆真っ青である。

 そのような情報が井上さんのもとに届いたのかどうかは知らないが、井上さんはどうしても約束を果たすために福島に行くといってくれた。

 とうとう寝台ハイヤーの手配がつき、寝台車に寝ながら福島まで来てくれた。心配で、奥様が付き添ってきていた。

 講演会の直前まで、ホテルで休んでいただいた。講演会は夜の7時からである。

 私は、30分くらい前に会場に到着した井上さんを、控室で見ていた。いよいよ演壇に立つという直前、井上付き担当者が井上さんの前に最高級ブランディ「ナポレオン」を差し出した。彼は、差し出されたブランディを大きなコップで並々三杯も飲んだだろうか。真っ赤な顔をして演壇に向かった。

 井上さんは、1907年の生まれだから、その時はすでに75歳になっていた。2000人の聴衆が入り超満員の講演会場をのぞいたら、演台に立っている井上さんの顔は、会場の一番後ろで見ていてもわかるほど真っ赤だった。

 講演会のお話は「私とシルクロード」というものだったと思う。

 2時間にわたってシルクロードのお話をしていたが、あれだけお酒を飲んでいるのにもかかわらず、講演の話に全然乱れがなかった。それより驚いたのは、シルクロードのややこしい地名をすらすら口にしていた。

 さらには話が中盤にかかるほどに、講演が滑らかに進んでいった。75歳というのに、話の筋道には説得力があった。しかも、手持ちの原稿もなしに滔々とお話をなさっているのにだ。

 立ち上がるのが困難なほどのぎっくり腰の痛みも、どこ吹く風という感じだった。

 超一流の文学者というのはもの凄いものだな、とあらためて感激した。それ以降、井上靖さんのものを集中して読んだことを覚えている。

 後で話を伺うと、井上さんは引っ込み思案で、人前でお話をするのは苦手だという。酒でも飲まないと、とても人前にたって講演などできる性格ではないのだそうだ。

 それにしては超満員の聴衆の前で、何の躊躇いもなくお話しする姿を見ていると、とてもそういう人には見えなかった。

 井上靖さんは、講演会の9年後、1991年(平成3年)に亡くなった。合掌

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2008年12月25日 (木)

№342 原爆の図丸木美術館

 ほとんどテレビの連続番組を見ることはないのだが、唯一、「なんでも鑑定団」だけは見ている。その番組の中に、丸木位里さんの絵が出品されていた。

 そうだ、まだ「丸木美術館」に原爆の図を見に行ってない、ということを突然思い出した。いずれ美術館を訪ねようと思っていたのだが、実現していない。明日行ってこようと言うと、女房も一緒に行くといいだした。

002  ウチから約30km、1時間で目指す美術館に到着した。林と川に囲まれた静かな場所に、目的の美術003館はあった。周囲を歩いていたら、広島で被爆したハマユウの株分けしたものが植えられていた。

 美術館は、入場料がシニア料金で800円だった。早速入場して、目指す「原爆の図」を見に行った。その絵は2階に飾られていた。屏風絵だったが、思ったよりもかなり大きなものだった。

010  屏風絵は第14部に分かれていて、それぞれ「幽霊」「火」「水」「虹」「少年少女」「原子野」「竹やぶ」「救出」「焼津」「署名」「母子像」「とうろう流し」「米兵捕虜の死」「からす」というタイトルがついていた。

007 008 009 011  墨絵で書かれているのだが、この会場は暗く、重苦しい空気に包まれている。絵の迫力に圧倒された。主題が、原爆の悲惨さを描きあげているのでやむをえない。

 丸木位里・俊夫婦は、1945年8月6日、広島に原爆を落とされた3日後に、現地を踏んでいる。位里さんが広島生まれで、実家が広島の真ん中にあったそうだ。現地での救出活動に明け暮れながら、原爆の悲惨さ・被害を目の当たりにした。その思い出は、脳裏を離れないものだっただろう。

013  ウチの女房は気持ち悪くなって、早々に美術館を離れたようだ。私は、さらに1階も見て回った。丸木015夫婦の書斎も一 般公開されていて、図書館になっていた。原爆関連の本が集められている。この書斎の窓から外を眺めると、都幾川が悠々と流れている。

 1階の展示場には、「水俣・原発・三里塚」「アウシュビッツ」「南京大虐殺」「水俣の図」等の大作が飾られていた。またさらに一画には、丸木位里さんのお母さんスマさんの絵のコーナーもあった。

 いやあ、大変な大作を良くぞ書き上げたものだ。久々に感動して帰ってきた。

(紅色に変色している事項は、別のサイトにリンクしています。クリックしてみてください)

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